ハートエデュケーションセンター代表川村法子が綴る、心の真実。意識の明かりは、人生に生じる様々な出来事や謎、運命を照らし、私たちの行く道を快適にしてくれます。

ライター
  • 川村法子 2018年2月8日川村法子
    ハートエデュケーションセンター、Pranava Life代表。これまでに不登校、ひきこもり、心身症、アレルギーなどの身体の症状、依存症、DVや小児期の虐待(身体的、精神的、ネグレクト、性的)によるPTSD、関係性の問題、お金や仕事の問題などを、解決へと導いてきた…

■意識と無意識についてのあれこれ。主に過去ブログを加筆修正して掲載していますが、最新記事も掲載予定です。

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■サバイバー回復レポートは以下からどうぞ。

意識の旅
  • セラピー中に注意すべき6つのこと 2021年5月14日セラピー中に注意すべき6つのこと
    セラピープロセスは、とても、長く、繊細なものです。一気に何かを達成したり、「なりたい自分になる!」と、マインドで決めたことを達成する道のりではありません。 継続的なセッションこそが、効果を生みますが、だからこそ、プロセス中は、様々な反応が生じます。 今回は、セラピープロセスの中で、マインドの罠にはまらず、本来の自分の力を取り戻すために、とても大切な6つのことを解説していきます。 セラピー中に注意すべきこと1:転移と逆転移を見極める セラピー中に、セラピストに親を転移(かつての誰かとの関係を、無関係の相手との関係に使うこと)することはよくあることですが、インナーチャイルドワークは、様々なセラピーの中でも、セラピストが転移を受けやすいと言われています。 なぜなら、クライアントが内なる子どもを意識することで、子どもである自分を刺激してしまい、セラピストに親や教師を見やすくなってしまうからです。 無意識を扱うセラピーですから、無意識で生じる転移を避ける必要はありません。 転移が起こらないのが何よりですが、起きた時にそのことに気がついていることの方が重要です。 もちろん、そのために、セラピストは自分自身にしっかりと向かい合い、転移を落とし、逆転移と呼ばれる、相手の転移に応じることがないように、意識的なあり方を磨く必要があります。 クライアントの過剰な転移には、セラピストが個人の尊厳を傷つけられるようであれば、しっかりとNOを伝えて、境界線を明確にすべきです。 ですが、だからといって、クライアントが起こす転移を100%発生させないことは不可能です。 セラピー中ならセッションで扱っていくこともできますが、転移を起したままセラピーをやめてしまうクライアントには、手の施しようがありません。 何が起こっても、それは、その人の人生の選択なのだと信頼して、いつかどこかで、その人がその転移の奥にある痛みを超えていくことができるように、静かにその人の背中に、魂の友として、頭を下げていたいと思います。 「助けられなかった」などいう無力さを感じているのだとしたら、それは、セラピストのエゴでしかなく、それこそが、クライアントが転移を起こす原因であることに、気がついている必要があります。 このことを自覚して、セラピストは、ただただ、自分の仕事を続けるしかありません。   セラピー中に注意すべきこと2:効果をしっかり感じる セラピーをやっても、一向に自分の人生が良くならないとか、体調がどんどん悪くなるとか、パートナーシップが大変な状態だとか、子どもの不登校が改善しないとか、、、そのような話は時々聞きます。 1つだけ明確なことは、言語化のセラピーを3ヶ月続けながら、何も改善を感じなければ、やり方が間違っているということです。 この場合、本人の受け取り方が間違っているか、セラピストがふさわしくないか、どちらかです。 また、本人があまりに重度のサバイバーの場合(ACE5以上)、3ヶ月くらいから半年くらいで、好転反応が出てくる場合があります。 基本的に、重度であればあるほど、セラピープロセスは長くなりますが、だとしても、必ず変化を感じながらの道のりですから、一切変化がないということはありません。 どれだけ重度のサバイバーであっても、半年から1年の間に、人生がうまく行き始めていると自覚できなければ、セラピーの効果を受け取っていません。 一年以上経った時には、自分らしさを探求したいという気持ちが湧いてくることもあります。 もし、それくらいの時間が経過しても、全く変化を感じないのなら、セラピストを変えるか、本人が自分のあり方を見つめ直すべきです。 セラピー中に注意すべきこと3:プロセスに乗る 毎回のセッションは素晴らしいのに、なぜかすぐに過去のパターンに戻ってしまい、結果、明確な変化が感じられないという話もよく聞きます。 この場合、セラピープロセスが、そもそも途切れてしまっていて、セラピーは困った時の助け舟だと認識されています。 セラピーは、プロセスと呼ばれる成熟の道のりに沿って行きますが、困った時の助け舟を必要としているなら、一方では、困ってしまうシチュエーションを望んでいますから、人生は、大波に揺られっぱなしです。 非常に過酷な人生ですが、幼い頃に、この過酷さに慣れてしまっているので、平和で凪のような人生の優しさは、深い場所で拒絶しています。 そのため、プロセスは常にぶつ切れのまま、困窮と救いの両極を行ったり来たりしてしまいます。 これは、一種の中毒で、ドラマ中毒、感情中毒とも呼ばれます。 人生に凪が訪れると、感情はなくなりませんが、常に感情的である必要はなくなり、事実をただありのままに眺められるような静けさがやってきます。 ドラマとも無縁ですから、誰かのおしゃべりや、感情の話には、さほど興味が湧かなくなります。 体を動かしたり、笑ったり、ただ、目に見える現象を静かに楽しんでいる時間が増えますので、感情に一喜一憂し、友人と感情の話で盛り上がることは少なくなります。 頭の中のおしゃべりが少なくなり、現実(見えるもの)にしか興味がなくなるというのは、ドラマ中毒、感情中毒を卒業しているという成長の通過点です。 セラピー中に注意すべきこと4:“そんな自分が好き”という条件付けを見破る ある程度セラピーが進んだ状態でも、この期間を足踏みすることがよくあります。 これが生じている場合、プロセスは少々難しいものとなります。 なぜなら、本人が満足してしまっているからなのですが、この場合、非常に強烈な条件付の中にあるので、実際には、まだ生きづらさでいっぱいです。 こだわりや完璧主義に支配されていますが、本人のアダルトチャイルドがそれを望んでいますから、変化させようというモチベーションそのものがありません。 それをやっていうちは、いつも疲労感があり、「こんなことをしている自分が好き」という条件付による有頂天と疲労感を行ったり来たりしてしまいます。 これも中毒症状なのですが、中毒している時は、本人は無自覚なので、中毒しながら、つかの間の快楽に満足しています。 もはや、人生は完璧で、セラピーは必要ないようなそぶりを本人は見せますが、関係性や人生そのものは、困難さに苛まれていますから、セラピープロセス中にここにはまっているとしたら、だからこそ、そのことに気がつき、セラピーを進めて行く必要があるのです。 好きであることは、とてもナチュラルなことなので、マインドでこだわって、手繰り寄せて、作り上げるものではありません。 また、好きなことをやっている最中は喜びとともに、心地よい感覚があるだけですから、「そんな自分が好きだ」という解離した感覚はありません。 ですが、これは、かつて痛みから立ち上がるために、何度もこの有頂天を利用してきたことによる脳内のドーパミン過多による反応ですから、なかなか本人の意志でだけではやめられません。 セラピー中に、好きなことを見つけることは、とても大切なのですが、それにのめり込んで、大切なセラピープロセスを中断してしまうとしたら、それはマインドの罠であるとわかっていることが大切です。 中毒落としは、非常に慎重に進めていく必要がありますし、とても時間がかかります。   セラピー中に注意すべきこと4:拒絶と孤独のパターンをやめる サバイバーの反応の中でも、最も難しいものが、拒絶と孤独です。 この場合、セラピストに激しい転移を起していて、かつて親へ向けられてた憤りを、セラピストに向けています。 ですから、セラピストを不十分だと言ったり、冷酷な言葉や拒絶によって、セラピストを傷つけようとします。 そして、相手より大きく出ることで、瞬間的に、自分は正しいという満足感を得ますが、拒絶は、結局、孤独を生じさせます。 また、孤独であることが、自分らしいという感覚があるのも、特徴的です。 意識的なセラピストであれば、クライアントが何を言っても動じることはありませんし、尊厳を傷つけられるような言葉には、NOを言うだけです。 転移を起した人が、どれだけ自分を傷つけようとしても、それは、本来、自分に向けられていることではないと知っていますから、残念な終焉に、ただ、残念さを感じるのみです。 その場合、その人はセラピストを貶めることに勝利はしていませんし、セラピストの人生は相変わらず平穏です。 残念なことは、残念なだけで、それ以上の意味はありませんが、拒絶と孤独を繰り返す人にとって、残念さは関係性の終焉です。   セラピー中に注意すべきこと5:罪悪感と自己卑下をやめる セラピストとしては、とても驚きのことでもありますが、セッションを受ける本人が、「セラピストの期待に応えていない」と思う場合があります。 クライアントとして、料金を支払い、忙しい時間を工面して、自分のためにセッションを受けているはずなのに、いつの間にか、セラピストの期待に応えようという気持ちになってしまうのです。 それに無意識の時、期待に応えられない自分を卑下して、セッションが継続できなくなってしまうことがあります。 セラピストは仕事をしています。 そして、クライアントは、セラピストの技能を利用するために、料金を支払いサービスを受け取っています。 極端な話をすれば、クライアントはセラピストを使っていいのですし、セラピストはそのために、クライアントの鏡となってそこにいます。 必要な心の知識を伝えることも、セラピストの仕事です。 クライアントは、堂々とセラピストの前で、困ったことを話していいですし、泣いてもいいですし、怒ってもいいですし、悲しんでもいいのです。 セラピストと契約をして、自分自身の成長の道を歩んでいるのは、クライアント自身であり、自分にこそ主権があることを忘れずに。   セラピー中に注意すべきこと6:自分の豊かさと喜びのためという主導権を放棄しない セッションを受ける目的は、セラピストのためではないというのは当然です。 それは、自分自身の豊かさと喜びのためです。 自分自身の豊かさと喜びに、どんなことが含まれるでしょうか。 パートナーのこと、子どものこと、仕事のこと、お金のこと、健康のこと、自分の人生に関わるあらゆることが、自分自身の豊かさと喜びに関わっているはずです。 どれか1つだけしか叶えらないということはありません。 セラピーでは、自分自身を整えるのですから、あらゆることの中心にある自分が整うと、人生に関わる全てのことに、本来良い影響があるはずです。 何度も何度も気づきを重ねながら、自分の周囲に、意識的な渦を起こしていきましょう。 あるべきものが、あるべき場所へ戻り、ありのままの自分と自分の本当の人生が、自然にそこに現れるはずです。 私は、セラピストして、ではなく、かつてセラピストに何度も転移や投影を繰り返してきた傷ついた子どもだったクライアントとして、また、十分にセラピーから恩恵を受け取ってきたクライアントとして、一人でも多くの人が、一日も早く、セラピーの効果を受け取っていただけるように、活動をしていきたいと思っています。
  • サバイバー回復レポートVol.10 お母さん、私の父を返してください 2021年5月11日サバイバー回復レポートVol.10 お母さん、私の父を返してください
    2021/5/11 「イクメン」という言葉は、最近はあまり聞かなくなりましたが、流行りだした当初から、この言葉には議論もありました。 ・・・・本来子どもに対する責任は、母親と父親に半分ずつ持っているもので、育児は母親が父親に手伝ってもらうものではない。 ・・・・育児という親として当然のことをしている男性に、どうして特別な価値を与えるのか? などなど。 今でも、子育ての全責任は母親にあるかのような社会的風潮がある日本では、母となった女性が就労に悩む実態があります。 一方で、子どもにとって、幼少期までの母子一体化がとても大切だという理解は、多くの人たちが、子として、親として実体感していることでしょう。 「父親が持つ子どもへの責任とは何か?」 「母親と子どもの一体化とは何か?」 このことを理解していると、子育てはとても楽になります。 そして、その理解のために、父子関係、母子関係以前に、夫と妻という、夫婦の関係性を理解する必要があります。 母子一体化 子どもたちは、誰もが母の子宮の中で育ち、胎盤から栄養を受け取って、この世に送り出されます。 母と胎児は、十月十日一体となって過ごします。 つまり、母=胎児の世界です。 生まれてからも、母の胸に抱かれて、母乳をもらったり、ミルクを与えられたりしながら、子どもたちは、少しずつ母との一体化を卒業し、外の世界へ自分を探しにいきます。 安心して、母子一体化を感じていられた子どもは、外の世界への旅立ちもスムーズで、自立も順調です。 ところが、母子一体化が十分に感じられていない子は、不安が大きく外の世界への旅立ちも遅れがちです。 「初期の社会」となる園や小学校で、我が子がうまくやっていくかどうかは、母親にとってみたら「子育て試験の結果」を突きつけられるようで、うまくいけばホッとするし、うまくいかなけば、自分自身を責めてしまうような事態にもなりかねません。 そうして焦った母親が、「ちゃんとしなさい!」「どうしてできないの?!」などと、不安がる子どもたちのお尻を叩いてしまうと、事態はさらに悪化して、子どもたちはむしろ家の外には出たがらなくなります。 この場合、大切なのは、子どもが何歳であっても、やり残してきた母子一体化を与え、子どもを安心させることです。 心理的な癒しにおいては、遅すぎることはありません。 安心できた子どもたちは、自分の足で、しっかりと社会へ入っていくことができるようになります。 この時期こそが、母子一体化の卒業という、自我の成長のための大切な通過儀礼です。 この通過儀礼は、自我を生きる人なら、誰もが何らかの形で通過している必要がありますが、通過できていない時、大人になった私たちは、母子一体化の狭い世界の中に閉じ込められて、身動きが取れなくなってしまいます。 母の眼鏡 誰もが、母子一体化から人生をスタートさせます。 そして、母の元を卒業する必要があります。 「愛されて安心できる感覚」とか「共感」という母性からもらったものはしっかりハートの中に持って、父性のエネルギーに導かれながら、「自分とは誰か?」という問いとともに、自我の輪郭をなぞっていく作業が、人の精神的成長であり、自我の確立です。 母の元からの卒業は、母を否定することでもあります。 この否定は、存在の否定ではなく、健全な孤独、つまり、一人あることを意味します。 ジョンブラッドショーが「病んだ家族からの旅立ち―アダルトチルドレンの克服と回復を目指して」の中で言っているように、成長するということは、母子一体化から旅立ち、孤独になる道のりのことなのです。 ですが、否定できないほどに、母が、かわいそうで惨めな存在だったら? 母を否定できないほどに、自分自身が、寂しさや孤独を感じていたら? 私たちは、母の元を健全に立ち去ることができません。 そんな時、母の感情を自分の感情と誤解しながら、母の眼鏡を通して世界を見てしまうようになります。 そうして、《母の小さな子》を生きている時、いくつになっても私たちは、自分らしさを感じられず、もがき続けることになります。 母の見る世界を生きていた私 夫婦の関係は、子どもに大きな影響を与えます。 私も、その影響を多分に受けて育った子どもです。 難しいのは、その影響が、夫婦(親)が意識してない無意識のものまで含むという点です。 さらに、母親が、意識的、または無意識的に、子どもが外の世界に行かないように、へその緒を切らずにいるとした、どうすれば子どもの方から、硬くつながったままのへその緒を切ることができるというのでしょう。 《肥大化した母性》の前で、《大人になった子ども》の私たちは、やっぱり無力であるように感じます。 ですが、セラピーは、そんな無力な私たちに、力を与えてくれます。 香港で受けたファミリーコンステレーショントレーニングで、両親の夫婦関係に巻き込まれ、かわいそうな母を助けようとして、母のために父を憎んできた自分を見つけました。 30代前半で、あまりの生きづらさで飛び込んだインナーチャイルドワークで、父こそが私の苦しみの原因だと思ってきたけれど、実際には母との問題が根深かったと気がついてから、それまで意識されなかった私の母への葛藤はより表面化するようになりました。 そうして何年も経って、はるばる飛んだ香港という異国の地で、広東語で明らかにされた私と両親の秘密に、私は言葉も出ませんでした。 両親の間に挟まれて、身動きが取れなくなっている私の代理人の元に、本人である私が呼ばれ、ファシリテーターにこう指示を受けました。 「“お母さん、私の父を返してください。”と言いなさい」と。 怒りの涙が流れ、私は、震える声で母の代理人に言いました。 母は、私が10歳の頃から、自分の夫は加害者で、私たち母子は被害者であることを、堰を切ったように、私に向かって話すようなりました。 その後、私が家庭を持って30歳を超えても、その話は止みませんでした。 母からの「あなたの父は加害者だから、愛してはいけないのだ」という繰り返されるメッセージとともに、私は大好きだった父のことを、長年母に奪われてきたのだと理解しました。 すると、ファシリテーターは、言いました。 「怒らずに、泣かずに、平常心で、静かな声で言いなさい」と。 これは、わたしにとって、とても意味のある方向づけでした。 確かに過去の母の言動は残念なものでしたが、それは過去のことであり、終わったことです。 私が、まだ、母に怒りを向けているのだとしたら、傷ついた小さな子のままだということになります。 「お母さん、私の父を返してください。」という静かな表現は、つまり、「私は、一人の成熟した大人として、父の娘である自分を尊重し、父とまっすぐにつながり、愛することを選択します。」という、意識的なコミットメントをするトレーニングだったのです。 過去を過去にするために 思えば、私は自分自身のセラピーの途中から、母への怒りに苛まれてきました。 そして、この香港での体験が生じるまで、私からの一方的な抵抗によって、母との関係には距離が出来ていました。 ある観点から言えば、子ども時代に隠されてきた母への怒りがやっと出てきたとも言えますが、だからと言って、それは大人の私にとっては健全なものとは言えません。 過去に正当性を求めているうちは、やはり、いまここの自分は苦しいのです。 「中毒は、子どもが母親へ向ける復讐だ」と、ファミリーコンステレーションの創始者、バート・へリンガーが、この書籍「愛の法則―親しい関係での絆と均衡」で語っていますが、「お母さん、私の父を返してください」とは、まさに、中毒から脱却するための宣言でもあります。 確かに、私は、いくつかの中毒的行動に苛まれてもきましたし、母が持っていた男性へ向けられる怒りと同一化してきたことは、私を何度も性的トラウマの被害者としてきました。 また、具体性のない、男や社会という概念へ、激しく抑圧された怒りを向けることにもなりました。 先日ふと親子関係の問題を扱う番組を見ていたところ、ある専門家が「母子関係の問題の原因は、父が家から精神的に去って、母が孤立してることにある」と言っていました。 だとして、その歪んだ母子関係の中で育った子が男性の場合、やはり、愛する父を真似してその場を去っていくか、母に飲み込まれ続けるしかないでしょうし、女性の場合は、自分の母と同じように、孤独のまま、子を飲み込み続けるしかないのでしょう。 ディズニーピクサーの中では人気がないと言われている「メリダとおそろしの森」は、女性監督作品ですが、まさに肥大化した母性を超えていく娘の物語です。魔法によって、肥大化した母性の象徴である「熊」に変身してしまった母との絆を取り戻す主人公メリダ。この英タイトルが「Brave」(勇敢)であることには、納得するばかりですが、人気がないのは、多くの人が未だに肥大化した母性と一体化していたいからかもしれません。 また、日本語タイトルが「メリダとおそろしの森」だというのも意味深く感じます。 河合隼雄先生がいうように母性社会に生きる日本人にとって、いまだに「母」とは、迷い込んだら出られない「恐ろしの森」なのかもしれません。 無意識を意識化する セラピーに飛び込むとき、私たちは、痛みに直面します。 それは、長年隠されてきた痛みで、小さな私たちは、その痛みに圧倒されてきました。 そうして、大人になってしまった私たちに必要なのは、まさにBrave(勇敢)であることです。 無意識にある隠された痛みを意識化することで、変えられなかった運命が、形を変えていく瞬間を目の当たりにするでしょう。   香港での最初の10日間のトレーニングから帰宅してから1週間ほど、私は、自宅のベッドで朝起きるたびに、びっくりして飛び起きていました。 というのも、朝起きる度に、自分が今どこにいて、今日が何日で、今何時で、自分が誰なのかわからないという衝撃を感じていたからです。 母を超えて、父とまっすぐつながることで、40数年間、母と一体化してきた歪んだ自我が、崩壊していたのだと思います。 1週間ほどその状態が続いていましたが、次第に、いつものように穏やかに目覚められるようになりました。 そして、それ以来、母との関係は、ぎくしゃくすることがなくなり、自然な感謝や自然な笑いが生まれる関係になりました。 もちろん、母が変わったわけではありません。 親は変えられないのです。 変わったのは私であり、それは、母のへその緒がやっと切れたことを意味していました。 SNSで見つけた東欧のアニメ作品。 アーティステックな描写の中に、日本では決して語られない痛みの本質を見ます。
  • サバイバー支援者が家族の心理学を学ぶべき理由 2021年4月28日サバイバー支援者が家族の心理学を学ぶべき理由
    ハートエデュケーションセンターは、これまで虐待サバイバー本人へのセラピー教育をしてきましたが、実際にサバイバーがセラピーを受けて、過去のトラウマによる心身の症状を克服するまでには、大きく分けると以下の2つの障害があると考えます。 1)サバイバー本人の認知能力の低下 2)支援者が適切な支援をできないこと 1つ目の本人の認知能力の低下とは、防衛反応によって、痛みを感じないようにしているために、自分に生じていることがわからないという状態です。 2つ目の深刻な障害は、本来サバイバーの支援者であるはずのセラピスト、カウンセラー、ティーチャー、パートナーが、本人に何が生じているのかを理解していないため、適切な支援が出来ないということです。 これまで何度も、支援者に心ない言葉をかけられて傷ついてしまったというサバイバーの話を聞いてきました。 もちろん支援者側は、本人を傷つけようと思ったわけではない場合もあり、見方によっては、本人が勝手に傷ついたとも言えます。 ただ、そうであっても、彼らの防衛反応や認知の低下に気がつき、彼らに何が生じているのかを理解することなく、支援者として最大限に力を発揮することはできません。 サバイバーの課題は、身体に刻まれたトラウマであり、機能不全家族の心理的呪縛から逃れられていないということです。 つまり、考え方や性格の問題ではない、ということです。 これはとても大事です。 つまり、サバイバーに考え方を変えろ、性格を変えろというのは、ほぼ意味がないどころか、さらなる認知の歪みを発生させてしまうことになります。 身体に刻まれたトラウマリリースのためには、トラウマ療法が受けられればベストですが、日本ではなかなか選べるほどセラピストが存在しません。ですが、うまくいけば、マッサージやボディワークでも、緩めていくことが可能です。 ※ハートエデュケーションセンターがお勧めするトラウマ関連の書籍は、HE図書室をご覧ください。 ただ、その際最も大切なことは、施術する側が、トラウマと機能不全家族の影響についてどれくらい理解しているか、ということです。 これは、実は、トラウマサバイバーだけでなく、本来すべての人に関わっていることなのですが、あまりにも核心に横たわっているため、多くの人がその周辺をぐるぐると回っているだけで、核心に手を触れようとはしません。 コーチングやカウンセリング、ボディワークが、サバイバーになかなか効かないのは、実はこの機能不全家族について支援者が知らないからだと言えます。 エネルギーワーク、前世療法などのいわゆるヒーリングと機能不正家族の課題も、無関係ではありません。 次回はそれについて。 動画コース「ハートメッセージガイダンスvol.4&5」は、家族の心理学についての講義が収録されています。 ハートエデュケーションセンター 川村法子
  • サバイバー回復レポートVol.9 判断から認知へ 2021年3月22日サバイバー回復レポートVol.9 判断から認知へ
    21.3.22 心については、コーチングやカウンセリング、育児法の観点からも、たくさんの情報が出回っているため、もっともらしい答えを持っている人も多いと思います。 「私は自己肯定感が低いから、はっきりと物が言えない」 「私は自己価値が低いから、被害者でい続けてしまう」 このような自己信頼の低さと関係性での消極的態度のつながりは、確かに原因と結果として理にかなったものです。 逆を言えば「自己信頼が高ければ、はっきりと物が言えるし、被害者でい続ける必要ない」とも言えますね。 成功哲学としては、正しいですし、異論はありません。 ただ、このもっともらしい原因と結果を掴んでいるだけでは、癒しは生じません。 この原因と結果論は、自分を判断しているだけという場合も多々あります。 「私は自己肯定感が低いから、はっきりと物が言えない」 として「だったらどうしたらいいのか?」という質問に、納得できるように答えることができる人は少ないのです。 「だったら、自分を愛せばいいじゃない!」 というのは、あまりにも乱暴です。 本人は、自分を愛せないで苦しんでいるのですから、「愛せばいい!」というアドバイスは、「それができたら苦労しない」という結論に行き着くだけです。 気づいても変わらない日々 クリエイティブな職業についている私の夫は、仕事と趣味が同じような人です。 それをいうと、私も同じかもしれませんが(笑)。 自分のやりたいことを極めていく在り方を、私たち夫婦は尊敬しあっていますし、子育てにおいて大切にしていることを正直に分かち合える関係に、私は満足しています。 もちろん、互いに不足もありますから、私ができないことは夫が対応し、夫ができないことを私がやっています。 今だからこそそんな余裕と循環が家庭の中にありますが、17年前は違っていました。 職業柄、夫はとても忙しい日々でしたし、私は、いわゆる「ワンオペ育児」をしていた時期がありました。 当時はそんな言葉はありませんでしたから、自分が何をしているのか問題意識もなく、ただただ孤独な日々でした。 いや、自分の孤独を認知もしていなかったと思います。 辛い気持ちと向かい合う日々の中で、「ああ、私は、父に見放されたと思ってきて、孤独だったから、同じように仕事で忙しくして私を孤独にする人を好きになったのだな」と気がつきました。 当時は、確かに納得しました。 ですが、気がついても、夫は忙しいままだし、私のワンオペ育児も変わらずで、よく言う「気がついたら変わる」という心の方程式は、私には無効でした。 17年間の変遷 あれから、17年以上経って、私の生活は一変しています。 コロナの影響もありますが、夫は在宅勤務で、仕事は忙しいですが、通勤がなくなり、家族との時間は増えました。 DIYをする余裕も増えて、家の中には、夫が作った家具が並び、夫のエネルギーが家の中にも満ち始めました。 子どもたちの自宅学習は、父親としての夫が積極的に関わってくれます。 比較的仕事の時間調整がしやすい私は、夫が担当できないことをやっていますが、互いに情報を共有しているので、私がやれないときは、夫がやっています。 子どもの習い事や塾の面談、学校の先生とのやりとりも、夫が積極的に関わる機会が増えました。 夫婦の会話が増えて、子どもたちのことや、家族の将来設計について話す機会も増えました。 かつての忙しさ自慢(私の方が忙しい!俺の方が忙しい!)はなくなり(笑)、互いの仕事を応援しているのは、それが家族の幸せへつながることがわかっているからです。 反発や抵抗は、家族を窮屈にさせます。 父親の在宅勤務で、謎に包まれていた父の仕事について、子どもたちもより理解が深まり、私たち家族のつながりはより太くなりました。 17年前の私は、こんな未来があることを、全く想像できなかったと思います。 思えば、何年も、私は、パートナーシップについて、探求してきました。 セラピーのグループに出るたびに、「パートナーシップって何だろう?」と、ファシリテーターに尋ねてきました。 完璧な答えがあるわけでもなく、毎回小さな気づきとともに、その輪郭をなぞってきたように思います。 そして、この数年、もはや「パートナーシップって何だろう?」という質問をしなくった自分に気がつきました。 今だって、それについての全てを知っているわけではありませんが、「知りたい!」「わからない!」ともがいていた自分は、一旦は通り過ぎたのかもしれません(また、シーズンがやって来るかもしれません。。。笑)。 「一生懸命にもがいてきたんだね。あなたが努力してきたからこそ、今の私がここにいます。本当にありがとう。」と、今、過去の自分を労いたいです。   孤独が愛だった そんなもがいてきた17年の中で、忘れられない気づきがあります。 「父に見放されて孤独だったから、同じように仕事で忙しくすることで、私を孤独にする人を好きになった」というのは、もっともらしい正論です。 ただ、私が見過ごしていたことは、私の“フェルトセンス”と、私のインナーチャイルドの“愛の誤解”でした。 フェルトセンスとは、体感覚です。 ある研究で、カウンセリングを受けるクライアントを観察している時に、フェルトセンスとともに感情の放出があったクライアントには癒しが生じていて、頭で考えているだけの人には癒しが生じてないという結果が出たといいます。 その研究結果を、私は、実体験として信頼していますし、実際、クライアントさんとのワークの中で、私がもっとも大切にしていることです。 幼い私は、孤独を、ヒリヒリとした焼けるような痛みと、ひんやりとした氷のような感覚として感じてきました。 ヒリヒリとした焼けるような痛みは、母のものだったのかもしれないと思います。 ひんやりとした氷のような感覚は、父が持っていたものかもしれないと思います。 大人は子どもの<情動モデル>つまり、感情学習のモデルとなる存在ですし、大人が言葉に出さない感情を、子どもは感じ取って真似します。 また、孤独であればあるほど、子どもは、なんでもいいから親のものを握り締める傾向があります。 「病んだ家族からの旅立ち―アダルトチルドレンの克服と回復を目指して」単行本 – 2004/9/1 ジョン ブラッドショウ (著), John Bradshaw (原著), 米岡 清四郎 (翻訳) この中で、著者のブラッドショーが書いている「人は見捨てられてしまっていればいるほど、それだけ強固に自分の家族や両親にしがみついたり理想化したりする傾向がある」というのは真実です。 残念ながら、孤独であればあるほど、子どもたちは、親の間違ったやり方にしがみついてしまうのです。 幼い私は、どうしようもない孤独から、その両方の感覚(ヒリヒリした焼けるような痛みとひんやりとした氷のような感覚)を、両親とのつながりとして、持ってきたのでしょう。 それは、「父に見放されて孤独だったから、同じように仕事で忙しくすることで、私を孤独にする人を好きになった」という正論のもっと奥にある、愛の勘違いです。 ヒリヒリした焼けるような痛みも、ひんやりとした氷のような感覚も、愛ではなく、痛みです。 幼い私が、父に見放されたと感じ不安と恐怖でいっぱいで、また内心は怒り、孤独を感じている母の側で、同じように感じてきたことは、残念なことでした。 私は、このような両親の解決できない感情に晒されるのではなく、安心して、愛されていると感じる必要がありました。 子どもの「心」をつくる育て方 (日本語) 単行本 – 2020/6/18 嶋本 操 (著) この本の中に書かれてある、「両親は、子どもを愛するだけでは不十分である。子ども自身が愛されていると感じなければならない」という記述に、私は自分に生じていたことを新たな側面から気がつき、ハッとしました。 両親は、当時の両親なりに、私を愛していたのだと思いますし、今は、両親とのやりとりの中で、純粋に感謝をたくさん感じています。 私がやりたいと望むことを、応援してくれたことは、何よりもありがたいことでした。 だけど、私が、十分に愛されていると感じることができず育った時期があったことは、とても残念なことでした。 それについて、もはや、私は親を責めようとは思いません。 ただ、残念だったなと感じます。 そして、自分自身の成熟した親として、過去の自分に「頑張ってきたね」と、心の中で伝えています。 認知が癒す 「父に見放されて孤独だったから、同じように仕事で忙しくすることで、私を孤独にする人を好きになった」というのは、過去の自分を表面的に見立てた<判断>であり、<認知>ではありません。 このような<判断>をしてるだけでは癒しは生じません。 フェルトセンスがないというのも、<判断>の特徴です。 頭ではわかっているけど、変化しないという時は、だいたいフェルトセンスを伴わない<判断>が生じています。 そして、その判断の奥に存在する、幼い自分のありのままを認知できるようになる時、深い気づきが生じます。 そのためには、フェルトセンスを取り戻すことが必要です。 私で言えば、“ヒリヒリした焼けるような痛み”と“ひんやりとした氷のような感覚”のことです。 そして、これを、幼い私が、両親とのつながりだと感じていたという、とてもピュアな子どもの感覚にたどり着くことが、<認知>です。 もっともらしい<判断>をし続けているとしたら、私たちは、自分を傷つけている可能性があります。 その奥に、本当は両親を愛していて、寂しがっている幼い自分がいるのです。 その子の気持ちに気がつくことなく、「私は自己肯定感が低いのだ!」「私は自己愛が乏しいのだ!」とか、「自分を愛せばいいのに!」という正論を振りかざすことは、有効ではありません。 場合によっては、自分自身を深く傷つけてしまっている場合があります。 癒すためのトレーニング 前述したように、癒しを生じさせるためには、<フェルトセンス>を取り戻すことが、何よりも大切です。 ですが、傷つきすぎたサバイバーにとって、<フェルトセンス>を感じることは、容易ではありません。 幼い頃に、あまりにも傷ついてきて、全身に感じる苦痛という<フェルトセンス>に圧倒されてきたために、麻痺することで対応してしまうからです。 体感覚の乏しさは、サバイバーの特徴の1つです。 かろうじて、感じられても、首から上の感覚しかないということもあります。 頭が思考でいっぱいで、首から下の感覚が乏しいのです。 そのために、私たちは、何度も何度も、<フェルトセンス>を感じる作業を繰り返していきます。 やっていくうちに、過去に麻痺させてきた<フェルトセンス>が蘇ることもあります。 置いてきぼりにしてしまった感情がやって来ることもありますが、成熟した大人として、その感情を受け止めることで、それは、安心して解放されていきます。 涙の流れない気づき、<フェルトセンス>のない気づきは、判断ですから、通過点でしかありません。 たくさん泣くことと、たくさん体で感じることが、私たちを癒してくれます。 そのために私たちは、トレーニングが必要です。 癒しは、 STEP 1:痛みに圧倒されて麻痺させてしまった<フェルトセンス>を取り戻し STEP2:成熟した大人意識を育てて STEP3:愛の誤解を認知するという 3段階で表現されます。 この3ステップを繰り返し通過していくことが癒しの鍵となります。 その意味で、癒しは、トレーニングによって生じるものと言えますね。 だとしたら、苦しい自分を責める必要はないんです。 なぜなら、ただ、トレーニングをすればいいからです。 自分の運命を悲観する必要はないんです。 なぜなら、ただ、トレーニングが足りてないだけだからなんですね。 ハートエデュケーションセンターは、癒しというトレーニングを、これからも提供していきます。 ACEスコア4という致命的なトラウマ指数の私が、今こうして、好きな仕事をして、夫婦で協力して、子どもたちにケアと教育を与え、家族の未来を設計しながら、日々を健康に楽しく生きていることが、私の活動の原動力であり、みなさんに伝えたい希望です。 一人でも多くのサバイバーを救うために、ハートエデュケーションセンターは、これからも活動を続けていきます。 ハートエデュケーションセンター 川村法子        
  • サバイバー回復レポートVol.8 食べ物という愛 2021年2月14日サバイバー回復レポートVol.8 食べ物という愛
    21.2.14 「子どもたちは無意識の世界を生きている」という事実は、心理学者や、幼児教育の専門家たちにとっては当たり前のことかも知れませんが、実際に子育てに関わる大人たちのほとんどが、そのことを知りません。 また、言葉では聞いたことがあっても、実際、それがどのような意味なのかは理解していない人たちもいるでしょう。 子どもたちは、「小さな大人」ではありません。 つまり、子どもの意識とは、大人の意識とは全く異なっていて、より全体に属しています。 全体とは、集合のことです。 子どもたちは、まず、自分である前に、母親そのものであり、父親であり、家族そのものの抱える無意識なのです。 身体の成長と共に、私たちの精神で生じていることは、自我の確立です。 自我の確立とは、つまり、全体を離れて、個であるという意識の芽生えです。 「私は一人である」という自覚が、精神発達の過程で生じていくことが、健全な自我の発達と言えます。 逆を言えば、身体が成長して、一人暮らしをしたり、自分の家族を持ったりして、形式上は原家族を離れても、原家族の集合意識から離れられず、自分らしい人生を送ってないのだとしたら、その人は大人になりきれない未熟な子どもを生きているのであり、健全な自我が発達してるとは言えません。 食べ物という愛 サバイバー回復レポートで書いてきたように、ACEスコア(小児期逆境体験スコア)が4というハイスコアの私は10代から20代にかけて、身体の様々な症状に悩みながら、精神的にも不安定な時期を生きていました。 ですが、多くのサバイバーがそうであるように、サバイバーたちはその状態しか生きてこなかったため、それ以外を知りません。 私は、本を読んだり、アートに触れたりしながら、不器用に自分自身の輪郭をなぞりながら、その歪さに違和感を感じてきました。 また、人間関係の数ある痛みの中で、何かがおかしいと自分に疑問を持ってきました。 そして、暗闇の20代をすぎて、30代のはじめに、ようやくセラピーに出会い、1年半から2年ほど経った頃、静かに衝撃的な記憶が蘇ってきました。 インナーチャイルドワークの1年以上の継続はとてもパワフルで、すでにその頃、私の人生にはたくさんの希望が見えてきていて、この道で間違いないという確信がありました。 そんなある日、何気なく、キッチンでお皿を洗いながら、当時まだ2、3歳くらいの娘に手作りおやつを作ることを考えていました。 おやつを手作りできることは、私の喜びでもあり、大切な時間でした。 「私にとって、食事を手作りするって、とても大切なことなんだな」とただ納得したその時、私が、6歳くらいまで、母の手作りの食事を、ほとんど食べたことがなかったという事実が浮かび上がりました。 幼稚園のお弁当は唯一母が作ってくれていた記憶がありますが、母はお弁当作りをとても嫌がっていて、出来上がったお弁当はお世辞にも美味しいとは言えませんでした。第一私は、幼稚園を途中でやめていて、実質、数ヶ月しか通っていないため、母のお弁当を長く食べていた記憶もありません(この記憶も、セラピーの過程で浮かび上がってきた事実です。)。 母の料理に対する苦手意識や罪悪感が、お弁当箱の中に充満していたのか、私は、お弁当をみんなの前で開けることが嫌で、蓋を立てて、中身を隠して食べていました。 とても惨めだった記憶があります。 「作ってくれるだけありがたいと思え」と言われればその通りですし、「飢えている子どもがいるのに、贅沢な話だ」と言う意見もあるかもしれません。 ですが、それは、セラピー的な一瞥ではありません。 自我が形成される前の全体を生きている子どもにとって、親の気持ちは自分の気持ちですし、親が与えてくれるものは愛そのものです。 だとしたら、親の料理への恥や罪悪感、嫌気によって出来上がる食事を、子どもは恥と罪悪感と嫌気の塊として、飲み込むことになるのです。 つまり、第三者が判断する「十分に良いお弁当」だとか「ひどいお弁当」だとか、「可愛い」とか「可愛らしくない」だとか、「栄養バランスが良い」とか「栄養が足りない」「量が多い」「量が少ない」ということは、セラピー的には問題ではなく、料理を作る親のBeing(在り方)そのものと、子どもがどう感じているのかが、とても大切なのです。 と思うと、食事のネグレクトをされてきたわけではないとしても、親が食事にネガティブな気持ちを持っていたとしたら、十分にそれは、子どもにとっての傷となり得ます。 私は、十分に食べさせてもらったし、お弁当を作ってもらえなかったわけではないのです。 ただ、お弁当に詰まった母の恥と罪悪感を愛として食べてきてしまい、お弁当以外の食事は、母が作ったものではなかった、つまり、恥と罪悪感以外の食事を、6歳までは母からは与えられなかったのです。   親は与えないことで、与えてくれていた 私は6歳頃まで、母の実家で祖父母たちと同居していました。 母の実家には、祖父と祖母、祖父の姉である大叔母がいて、料理好きの祖母と大叔母のおかげで、食卓は豊かでした。 実家に住んでいる娘としての母が、料理が苦手なままだったのも当然です。 祖母たちは、娘が料理をすることをさほど望んではいなかったようですし、母は働いていました。 私だって、その状況であれば、同じように親の作る料理を我が子と一緒に、何の疑問もなく食べていたかもしれません。 想像ですが、母は「お弁当くらいは作らないと」と自分の親に気を遣いながら、娘である私にお弁当を作っていたのかもしれません。 若かった母の状況に、深く共感します。 インナーチャイルドの傷を認めるのは、親を責めることではありません。 親には、それしかできなかったのですし、過去は変えられません。 キッチンでお皿を洗っていた時、小さな頃の食べ物に関する記憶の点と点が繋がって、自分に生じていた事実が線として浮かび上がりました。 そして、それが、私の中の漠然とした不安の正体だとわかりました。 時折食べる母の恥と罪悪感の詰まったお弁当と、それ以外に母から手作りの食を与えられなかったことで、幼い私は、愛に飢えてしまっていたのです。 また同時に、どんなに忙しくても、私にとって料理を作ることが、大切な心の健康のバロメーターであることにも、納得しました。 5歳頃、母の仕事先に、ご飯と卵焼きを入れたお弁当を届けたことがありました。 母はとても喜んでいた記憶があります。 当時、祖父がお砂糖の入った甘い卵焼きの作り方を教えてくれました。 台所で卵を焼いている楽しそうな祖父の顔を思い出します。 祖父に習って焼いた黄色い卵焼きをぎゅうぎゅうに詰めた温かいお弁当を持って、母の職場にスキップして行った小さな私を思い出します。 母が、幼稚園のお弁当を作れなかった日は、祖母が代わりにお弁当を作ってくれました。 主婦歴の長い祖母のお弁当は、とっても色鮮やかで、ぶどうも入っていて、私は、自慢げに祖母のお弁当を開いた記憶があります。 大叔母の作るクッキーやシュークリーム、重厚なガスオーブン。 大好きだったテレビアニメ「スプーンおばさん」の焼き林檎が食べたいと言ったら、大叔母は焼き林檎を作ってくれました。 「思った味とは違った」と思いながらも、自分のリクエストが叶えられたことに、私は満足しました。 私が、6歳をちょっと過ぎた頃、そんな母の実家から、父の実家での生活に移りました。 姑との生活で、母は、積極的に料理をするようになりました。 母の洋風の料理はとても美味しくて、私は、やっと母の手料理を食べられたことが、嬉しかった記憶があります。 父方の祖母も、昔ながらの料理をたくさん作ってくれました。 仕事がら父が持って帰ってくる新鮮な魚や果物もたくさんあって、お金の苦労は随分あった家でしたが、食卓は賑やかでした。 街中にあった母の実家と違って、山側の父の実家は、子どもがのびのび遊ぶこと、たくさん食べることが大事とされていて、親戚が集まると、子ども天国で大にぎわいでした。 この雰囲気は、今でも父方の親戚の家にあって、我が家の子どもたちも、年に1回、帰省するときは、田舎の子ども天国的な雰囲気をとても楽しんでいます。叔母の作る料理が、とても美味しいのだと言います。 とは言え、ACEハイスコアの私にとって、育った環境が健全だったとは言い難いのです。 大人たちのタバコやお酒の中毒、関係性の中毒、お金や仕事への不安などなどは、家族の中に蔓延していました。 小さな私は、中毒や不安のエネルギーと同時に、食を通して、生きていくための愛を受け取ってきたのでしょう。 受け取ってきたものにフォーカスする ファミリーコンステレーションのワークショップの中で、私には精神的に両親が不在だったことが、明らかになったことがありました。 それまでも、父の不在や孤独、罪悪感、母の関わりの浅さや麻痺、逃避による機能不全家族に育った一人っ子の私の傷については、インナーチャイルドワークを通して見てきていたつもりでした。 ですが、インナーチャイルドワークという感情的理解の視点とは違い、家族システム(影響し合う家族関係)から、この事実を明らかにすることは、家族の中にある無意識の力動を変化させる強烈なパワーがあります。 「この状態では、あなたがここまで生きてこれたはずがない。あなたには、必ず他の大人の愛が注がれていたはず。」と、私のファミリーコンステレーションのティーチャーが、私に生じていた事実を見抜いて言葉にしてくれた時、私は、祖父母、大叔母、伯父、叔父、叔母など、幼い私の側にいてくれたたくさんの大人たちへの感謝とともに、涙が溢れて止まりませんでした。 インナーチャイルドワークやトラウマ療法という自我ワークは、<自分が受け取ってこなかったこと>や<傷ついてきたこと>にフォーカスを当てることから始まります。 ある段階まで、それは、家族の粗探しのようで、どこか、親を責めているような行為にも思えます。 ですが、ハートエデュケーションセンターで繰り返しお伝えすることは、「インナーチャイルドワークは親を責めるワークではない」ということです。 もし、親を責めている自分に出会ったら、それは、アダルトチャイルドがやっていることだと認識して、さらにその奥に意識を向けていく必要があります。 アダルトチャイルドたちは、恥の意識でいっぱいで、自分に生じた痛みと自分を同一視しています。 出来事と感情をしっかり分けることができるようになると、過去の自分に生じたことを責める必要は無くなります。 「それは、ただ残念なことだった」と、事実を否定せず、過去にOKを出す感覚こそが、許しです。 そして、むしろ、過去の傷を見つめていく時、<受け取ってきたもの>に気がつきだします。 幼い私が母の手料理をあまり食べていなかったことや、唯一の母の手料理であるお弁当に恥と罪悪感が詰まっていたことは、残念なことでした。 ですが、それによって私は、祖母たちの手料理がとても特別に感じられましたし、今の私の「食を大切にしたい」と思う気持ちにつながっています。 母がお弁当には彩りが大切なんだと気がついたのは、私が4年生のときでした。 急にお弁当作りの腕を上げた母の口からは、それ以来、お弁当作りが大嫌いだという小言は聞くことはありませんでした。 ですが、私は、高校生になっても、お弁当を食べるのは好きではありませんでした。 私の無意識には「お弁当は美味しくない」という思考の溝が掘られているのかもしれません。 幼い頃に親から受けとってきた愛の形(ex.お弁当は嫌なもの)は、簡単には変わりません。 そんなお弁当の傷を持った私ですが、東京で一人暮らしをしていた学生時代、毎日学食に通う私の傍らで、実家通いのクラスメイトが毎日お母さんの作ったお弁当を美味しそうに食べていたのを、不思議に眺めていた記憶があります。 彼女のお弁当は、いつも可愛らしくて、お母さんの愛情がたくさん詰まっていました。 今、娘のお弁当を作りながら、時々その記憶が蘇ってきます。 愛おしさとともに、娘に美味しく食べてもらいたいとお弁当を作りながら、もしかしたら、彼女のお母さんも、こんな気持ちでお弁当を作っていたのかなあと想像しています。 私は、本当はこんなお弁当を食べたかったのかもしれません。 学生時代に目撃した友人のお弁当は、私のインナーチャイルドがそれまで知らなかった世界を知った時のような驚きと希望が詰まっていたのでしょうね。 姑とともに長く生活した母は、料理の腕をメキメキあげて、私の色々なリクエストに答えてくれるようになりました。 当たり前のように食べてきた母の食事ですが、とても美味しかったな思います。 今、あれが食べたい、これが食べたいと、朝から注文の多い息子たちのリクエストに答える時も、私は密かに喜びを感じています。 子どもたちが、食に満足しているのは、私にとって喜びです。 今日は、バレンタインデーでした。 残念ながら女の子からチョコレートをもらわなかった上の息子ですが、バナナチョコマフィンを作ったら、「味は普通」と言いながらも、夕食後なのに嬉しそうに何個も頬張っていました。 大好きだった大叔母のガスオーブンの思い出から、我が家はガスオーブンを使っています。 グルメな父は、よく、美味しいレストランへ連れて行ってくれました。 買ったばかりのソフトクリームを転んで落としてしまった私に、「また買ってきなさい」と言って、優しくお金を渡してくれました。 父に見捨てられたという幼少期の傷がある私ですが、食を通して、父の愛を感じてきたのも事実です。 私にとって食事は、母の愛でもあり、父の中の「育む母性」とのつながりでもあります。 私の夫は、こだわりの料理を子どもたちへ提供します。 パスタ、チーズトースト、たこ焼きなど、ちょっとジャンクな料理ですが、パパの味は絶品で、子どもたちは、いつも美味しそうに食べています。 ママとは違うスペシャルな美味しさがそこにあるようです。 私と夫がそれぞれに<食という愛>を子どもたちへ与えていることに、私のインナーチャイルドは、深い安心と喜びを感じています。 これは、私が幼い頃に体験したかったことであり、今、叶えられていることです。 人にとって、食は、生き延びるための餌ではなく、滋養に満ちた豊かな愛です。 それは、全体という無意識を生きる子どもたちが、親が与えてくれるものは全て愛として受け取るという習性に由来しています。 私たちは、食を通して、どんな風に愛を受け取ってきたでしょう。 食にまつわる記憶を精査することは、私たちの愛の真実に気がつくことです。 ハートエデュケーションセンター 川村法子    
  • サバイバー回復レポートVol.7 健全な生命のリズム 2021年2月9日サバイバー回復レポートVol.7 健全な生命のリズム
    21.2.9 サバイバーたちが、親を正当化せずに、事実をありのままに見つめることは、セラピーを進める上で何よりも大切なことです。ですが、多くのサバイバーたち、いや、良識的な大人たちのほとんどは、「親には感謝している」「親を尊敬している」と言います。 それはとても大切な態度であり、そうなることは、成熟した大人のあり方でもありますが、もしそれが、真実をみないままの偽りの態度、すなわち防衛だとしたら、本人たちの現実は、とても生きづらいものになっているはずです。 わかっていたとしても、現実が生きづらければ、本当にわかっているとは言えません。 肉体、お金、仕事、住居、着るもの、食事の仕方、愛のある関わり、子どもたちの笑顔や健康という、とても当たり前の現実にこそ、癒しは現れます。 ジェットコースターの日々 自分がトラウマサバイバーだと気がつき、セラピーを始めたのは30歳になったばかりの頃でした。 それまでも、いくつかのヒーリングワークやカウンセリング、瞑想を受けてきましたが、その時は効果的でも、時間が過ぎると、やはり、同じことを繰り返し、自分の心が安定していないことに、疑問を感じる日々でした。 本を読んだり、信頼するセラピストたちの話を聞くと、とても納得し、自分が賢くなって、わかったような気になるのです。 資格を取ったり、学びを深めたりする中で、確かに気づきもたくさんあり、世界の見え方は広くなりました。 ですが根本的には、自分の人生はよくなったように思えませんでした。 自尊心が傷つくような出来事がハプンしては、数日〜数週間悩み続けて、ある気づきに至り感謝の気持ちが生じる。 すると、何かがひらけたように見えて、まるで真実を知ったかのように思える。 ですが、しばらくすると、また同じような出来事が生じるのです。 まるで、ジェットコースターのような日々でした。 上がったり、下がったり、両極に振れる日々は、むしろ、ただ沈んでいる日々よりも、体力と精神力を消耗するようで、私は、心身ともにずっと疲れていました。 インナーチャイルドセラピーに出会って、癒しが生じるたびに、そんなジェットコースターのような人生に、凪のような平和な瞬間が増えていくことを発見しました。 それは、とても驚きの体験でしたし、ただセラピーをやり続けるしかないと、様々なヒーリングワークの学びの傍らで、私は、約5年ほど、セッションに通い続けました。 その間に、私の体はどんどん健康になり、夕方には疲れてキッチンでしゃがみこんでいるということもなくなり、長引く風邪もひかなくなり、冷えも改善して、便秘症はなくなりました。 前回のレポートに書いたように、今では、あれほど悩んでいた頭痛もほぼ改善しています。 同時に心の状態は、凪が続いています。 人生には上がったり、下がったりのリズムがある 人生に、一定の安定があるわけではなく、私たちの内面、行動、生体的なリズムには、日々、瞬間瞬間、あらゆる変化が生じます。 そのことに深く納得します。 忙しくしている時もあれば、比較的ゆったりとしている時もある。 行動したいと思う時もあれば、今はやめておこうと思う時もある。 みんなと過ごしたい時もあれば、一人で過ごしたい時もある。 嬉しい時もあれば、怒る時もある。 そのようなリズムは、人の健康な生命活動にとって必要なものです。 ですが、そのことは、忙しい時はパーティ三昧で、そうじゃない時は朝から布団をかぶって「死にたい」とつぶやいている状態とイコールではありません。 また、気分がよければお酒でハイになって、そうじゃない時は、誰とも話したくないと閉ざしている状態ともイコールではありません。 人生は、スリルに満ちたジェットコースターである必要はなく、内側の奥深くに、一定の安定性が感じられる状態も存在します。 その揺るがない一定のリズムの内的状態が確立されていなければ、むしろ、健康とは言えません。 多くのサバイバーは、その状態を知りませんし、むしろ、人生とは、ジェットコースターのようなものだと勘違いしています。 また、感情のリズムについても、ハイとローの極に振れ続けることが、感情の真実だと思っています。 サバイバーたちは、大人から感情の扱い方を習っていませんし、そのことを理解できないのは、しょうがないことです。 そして、むしろ安定した人たちを見ると、つまらないと感じたり、軽薄で、何も考えていないのだと思いがちです。 自分の両極端な感情の波や、思考の複雑さこそが、奥深い人間であることの証拠で、自分は優れているのだと思っていることもあります。 ですが、癒しが進んでいくと、扱えないほどの大きな感情の波や、複雑な思考は発生しにくくなり、むしろ、意味のない会話を楽しむことができて、自分の考えにこだわることが少なくなります。 これまで「感情的な会話ができないからつまらない」と避けてきた人たちが、実は、むしろ、心の傷が少ない健全な自我の持ち主であることにも気が付き始めます。 ああだこうだと、感情のアップダウンの話をする必要性が少なくなる一方で、相手への共感と自分自身の深みは増し、生じたことを感情的に周囲にばらまき続けることも少なくなっていきます。 30代前半から私自身が受けてきたセラピーも、回を増すごとに、私の吐き出しは少なくなり、最後の方は、時間も短くなり、簡潔に済む事が多くなりました。 豊かなハートの大地 今、セラピーをお伝えしながら、感じることは、言葉とはエネルギーだということです。 つまり、抑圧されて溜め込んでいるエネルギーが多いと、とにかく言葉が増えます。 ですから、癒しが進み、気づきが増すと、語らなければいけないものは少なくなっていきます。 逆もあり、抑圧したまま吐き出すことを恐れているときは、もちろん言葉は少ないままです。 まずは、とにかく、吐き出す必要があります。 吐き出せるようになるまでは、人によって差はありますが、やっと吐き出せるようになったら、定期的なセラピーや瞑想の場で、エネルギー的な吐き出しを継続していくことが必須です。 また、安心して吐き出せる場所を持っている人たちとの会話は、その奥深くに、柔らかなハートのスペースと、深い呼吸のリズムがあって、その場が、ある種の守られた安心できる場に変化するのを感じます。 ハートのコヒーレンス状態(一貫性、周囲との調和)が起こるのですね。 私がそうであったように、サバイバーたちが、人生の複雑さと苦悩をなんとか解決しようとして、学びに耽り、結果、自分の人生の複雑さをそのままに、機能不全家族の子どもを生き続けてしまっていることが、とても残念でなりません。 その知恵も、あの学びも、その資格も、あの経験も、健全な自我にとっては、とても意味のあるものです。 ですが、健全な自我がなければ、何もかもがぬかるんだハートの大地に沈んでいってしまいます。 一人でも多くのサバイバーが、そこはぬかるみで、幸せな状態ではないと気が付きますように。 一人でも多くのサバイバーが、そのぬかるみから出てもいい、出ても自分を傷つけてきた両親の子どもでいていいと理解できますように。 一人でも多くのサバイバーが、そのぬかるみから救出され、しっかりとしたハートの大地の上にたち、太陽の光を浴びて、雨の恵みを受け取って、豊かな大地という、自分の人生の舞台を耕していけますように。 ハートエデュケーションセンター 川村法子
  • サバイバー回復レポートVol.6 頭痛の原因<後編> 2021年1月9日サバイバー回復レポートVol.6 頭痛の原因<後編>
    21.1.9 前編からの続きです。 イントロダクション<後編・用語の理解>でも解説しているように、抑圧された感情は内攻化(アクティング・イン)することで、自分自身に向かい、頭痛や腰痛などの慢性化した体の不調から、命に関わる成人病などの深刻な症状、外的な理由としか思えない交通事故など、自分自身を痛めつける体験を引き起こすというのは、心理の世界においてはよく知られた事実です。この事実は、頭で理解するだけでは、「ああ、なるほど」という知識でしかないのですが、実際にセラピーや瞑想で自分が意識的にそれを知ると、人生がひっくり返ってしまうような衝撃を受けます。そして、確かにこの衝撃体験こそが、セラピーの1つの醍醐味的頂点であり、その極みにタッチすることなく、サバイバーが癒しを体験することは難しいのです。日常の小さな気づきは大切ですが、この極みに到達するための積み上げだと言ってもいいくらいです。 https://hearteducation.center/heartcollege/videocourse/introduction 慢性的な頭痛 月に1回ほど、ひどい時は2週おきくらいに、1日寝込んでしまう頭痛は、明らかに私の日常を狂わせるものでした。カイロ、整体、鍼、ヨガ、グルテンフリーの食事法、あらゆることを試してきましたが、一時的な回復はあるものの、根本的な解決になっていないのは明らかでした。 グルテンフリーは私にとてもよく効いて、今でも継続してます。小麦をやめて3、4日ほど経った頃に、頭の中が怖いくらいにクリアになった体験は忘れられません。今では、外食や頂き物など、状況に応じて微量の小麦は摂取しますが、積極的にグルテンを摂取する生活はしていません。グルテンフリーは、頭痛だけではなく、それ以外の私の身体の不調にも、とてもいい効果をもたらしてくれました。 ただ、そうであっても、完璧に頭痛が治ったわけではありませんでした。やはり、定期的にやってくる頭痛は、毎回、突然、昼頃からスタートして、夕方にはひどくなり、家事もできないほどで、夜は激しい痛みで、目を開けることもできず、早めにベッドに入るしかありませんでした。 痛みは翌朝になっても治らず、動けないほどで、その日の夕方頃になると、徐々に収まりだし、夜になると今度は過覚醒のように冴えてくる。 これが、私のおきまりの頭痛パターンでした。 そして、このパターン化した頭痛をどうしたらいいのか、頭を悩ませながら、私は約3年ほど、真剣に頭痛改善に取り組み、頭痛を克服しました。 頭の中に流れ込む煙 頭痛改善に取り組む前のこと、今から8年ほど前でしょうか。自分が突然、別人になったかのように、イライラしてしまうことを発見しました。 さっきまで散らかっていた部屋でもOKだったのに、次の瞬間、そのことがとてつもなく嫌になって、子どもを叱ってしまう。 もちろん、散らかった部屋を片付けるよう叱るのは、親の当然の躾という人もいるかもしれませんが、子どもたちに冷静に伝えるのではなく、抑えきれないイライラをぶつけるのは、全く良い叱り方とは言えませんでした。 また、私が気になったのは、そんな時に、自分の頭の中がぼーっとして、まるで、霧の中に入ってしまうような症状でした。 頭の中に煙が充満して、感覚がぼんやりしてしまう。 なのに、イライラは激しくなる。 この違和感に気がついたことが、私にとって、とても大きな意味を持ちました。 そんなある日、リビングルームを掃除していたら、突然に煙が頭の中に充満してくる瞬間を感じ取りました。 「きた・・・これだ。」そう静かに流れ込む煙を認知しました。 当時の日記を振り返ると、その認知の瞬間とは、“まるで仙人が飛んでいるハエを箸で捕まえるような瞬間”だと表現されていて、なるほどなと思います。 いつも気がつくとそうなっている無意識の状態を、その時は意識的に目撃できたという感動的な体験でした。 ですが、認知したからといって、頭の中に流れ込んでくる煙を止めることはできず、一気に私の脳は煙に包み込まれたような感じがしました。 ただ、その瞬間を捉えたことによって、その後、私のイライラは減りました。 今思えば、頭の中に充満する煙で麻痺していく体の感覚を払拭するかのように、怒りを発散し、なんとかしようと身体がもがいていたのかもしれません。 この体験から、私の慢性的な頭痛が、私の精神にも影響を与えているだろうと推測されました。 そして、このことが、私のパターン化した頭痛を、なんとか解決したいという思いの原点ともなったのです。 10歳の私が車の中で体験したこと その認知から、随分と時間が経ち、真剣に頭痛改善に取り込み出して2年ほど経った頃です。 確かに頭痛は徐々に改善していたのですが、回復率は、感覚的に言えば、ひどかった時の30〜40%ほどでした。 そんな時、ある個人セッションで、私は、自分の10歳の時の性的トラウマを扱うチャンスがやってきました。 このトラウマは、実は、30代のはじめ、インナーチャイルドセラピーを受けだして1年くらいした時に蘇ってきた記憶で、それまですっかり忘れていた出来事でした。 信頼していた4年生の頃の担任に、車の中で異性に向けられるような言葉の表現を受けて、私は恐怖で混乱し、パニックになりました。相手の教師は、車内でうつむいて黙り込む私に、謝ってきたような記憶があります。本人も間違ったことを言ってしまったのだと理解したのかもしれません。もはや、私が知るべきことでもないのですが。 それ以外のより深刻だと思われる体に受けた性的トラウマはセラピーで扱ってきたものの、その出来事は実際に体に受けたトラウマではなかったと思い込んでいて、そのことだけが、ポツンと記憶の中に取り残されてきたように思います。 思えば、他の性的トラウマの記憶は全て記憶していたにもかかわらず、その車内で生じた出来事だけ忘れていたということは、それは私にとってよりショックな出来事だったのでしょう。 インナーチャイルドセラピストであり、ファミリーコンステレーションのファシリテーター、そして、ソマティックエクスペリエンスのセラピストでもある経験深いセッションギバーは、私のこのトラウマを扱うための全ての必要条件を備えていて、深い信頼とともに、この繊細な記憶が扱えたことは、本当にありがたいことでした。 ソマティックエクスペリエンスの誘導の中で、私は、この時、恐怖で凍りつき、「どうして!どうして!どうして!どうして!」と、相手の教師に対して疑問をもち、どうすることもできず、その全ての疑問を内側に封じ込めたことがわかりました。 思えば、私の頭痛と肩こりは、4年生の頃からひどくなりましたが、このトラウマを受けた時期と重なります。 幼い私も、両親も、私の症状とこの出来事が結びついているなどとは、気がつくことはありませんでした。当然のことでしょう。 セッションを受けながら、イメージの中で、私は誰もいない家に戻り、脱力して畳に寝そべっていました。 畳からは、亡くなった祖母の匂いがしました。 実際のセッションルームのつるつるとした柔らかいプラスティック素材の床の上で、私の体は畳を感じながら、「おばあちゃんのエネルギーを感じる」と、私はか細い声で、セラピストに伝えました。 精神的に両親が不在だった私は、祖母がいつも綺麗に掃除をして整えてくれる古い家の中で、こうして安心感を感じていたのでしょう。 祖母への感謝とともに、私の中で鳴り響いていた「どうして!」という言葉は止み、ある気づきが湧いてきました。 それは、「長い間、私はこの出来事がなぜ起こったのか、その原因を考え続けてきたけれど、それは私の知ることではない。ただ、私は傷ついて、怖かった、それだけだったんだ。」ということでした。 それを伝えると、セラピストは言いました。 「それこそが、健全な境界線です。相手がしたことは相手のカルマで、あなたの知ることではないのです。怖かった自分を抱きしめるだけで十分ですよ。」 深い安堵ともに、私の内側に静寂がやってきました。 怒りのマグマ 人生の色を全て塗り替えしまうようなセッション体験の翌朝、緩みまくった体とともに、ダイナミック瞑想というOSHOのアクティブ瞑想に参加しました。 すると、カタルシスのステージで、私の中から、今まで感じたことのないような、怒りが放出し始めました。 それは、脳天から吹き出すようなマグマのようで、体は大きく躍動しながら、そこに抑圧はなく、喉は開き、声は爽快に響き渡り、腹の底から、大量の怒りが放出されたのでした。 私が、怒っていたのは、その時の教師だったのです。 「やめて!」「あっちへ行って!」「許せないよ!」 自分の尊厳を守るためのNOを、全身で表現したのでした。 当時抑圧してしまった怒りは、私の30年後の体で、しっかりとつけを取ることができたのです。 それから、すぐに私の慢性的な頭痛はなくなりました。 回復率は90%でした。 衝撃的なセラピー体験の後、寝込むほどの頭痛はなくなりましたが、それでも時々かすかにやってくる違和感を解消するために、ボディワークやセラピーを継続してきました。 それらは順調に効果があり、現在は、頭痛の回復率99%です。 それでも、1%残しているのは、私の体に完璧がないことを尊重したいからです。 また、頭痛はやってくるかもしれません。 ですが、もうしばらく寝込んでいないですし、体調は良好です。 本当に怒りたかった人に怒ることで、私に30年間続いた内攻化をやめることができました。 体は過去を記憶しますが、だからこそ何年経っても、過去の傷を癒すことは可能です。 ただただ、信じて諦めなかった私自身の情熱を、今讃えたいと思います。 私のインナーチャイルドへ。 頑張ったね。 あなたの我慢強さが、このことを克服できる力になったね。 ママは、あなたの力に、心の底から驚いています。 あなたをこれからも見守っていくから、その力を自分自身に使っていいよ。 あなたのことを、とても誇りに感じています。 ハートエデュケーションセンター 川村法子
  • サバイバー回復レポートVol.5 頭痛の原因<前編> 2021年1月9日サバイバー回復レポートVol.5 頭痛の原因<前編>
    21.1.9 イントロダクション<後編・用語の理解>でも解説しているように、抑圧された感情は内攻化(アクティング・イン)することで、自分自身に向かい、頭痛や腰痛などの慢性化した体の不調から、命に関わる成人病などの深刻な症状、外的な理由としか思えない交通事故など、自分自身を痛めつける体験を引き起こすというのは、心理の世界においてはよく知られた事実です。この事実は、頭で理解するだけでは、「ああ、なるほど」という知識でしかないのですが、実際にセラピーや瞑想で自分が意識的にそれを知ると、人生がひっくり返ってしまうような衝撃を受けます。そして、確かにこの衝撃体験こそが、セラピーの1つの醍醐味的頂点であり、その極みにタッチすることなく、サバイバーが癒しを体験することは難しいのです。日常の小さな気づきは大切ですが、この極みに到達するための積み上げだと言ってもいいくらいです。 https://hearteducation.center/heartcollege/videocourse/introduction 抑圧された怒り あらゆる瞑想がある中で、私を助けてくれたのは、OSHOのアクティブ瞑想と呼ばれるものでした。 サバイバーである私が、アクティブ瞑想とセラピーの2つの車輪を利用して、ここまで回復できたことは、本当にラッキーなことでした。 私を導いてくれたメンターたち、信頼するセラピスト、ファシリテーターたちに、感謝がつきません。 ACEスコア4というハイスコア群の私に、セラピーやカウンセリングだけでは到底無理だった癒しを、アクティブ瞑想は引き起こしてくれました。また、それがあったからこそ、セラピーも私の神経を深く癒してくれたのだと思います。 アクティブ瞑想の1つに、Awareness Understanding Meditation(アウェアネス・アンダスタンディング・メディテーション)というものがあります。通称AUM瞑想は、例のカルト宗教とは無関係です。誤解のないように。 この瞑想は、セラピーでもあると言われているようですが、セラピーと瞑想の2つを橋渡しするような強力な作用があります。 私はこの瞑想の大ファンでもありますが、ある時、ワークに入る前に、怒りを出す瞑想ステージのデモンストレーションをしてくれていたファシリテーターたちを見ながら、私が表現する怒りが、到底彼らの表現に及ばないことに気がつきました。 彼らは、まさに本能むき出しで、強烈な怒りを出しているのですが、私の声はしゃがれていて、腹に力は入らず、喉は詰まったまま、気が頭に登ってしまうような状態でした。 「どうしたらいいんだろう・・・。」そう思っても、努力で便秘症や慢性頭痛が治らないのと同じように、自分の体の反応を努力で変えることはできません。 「どうやら、まだ、私は本気の怒りを出せてないようだ。」そんな気づきを得ながらも、3年ほど、私は、そのことをどう扱っていいかわからず、時間は過ぎていきました。 日常的には、夫婦関係でもしっかりと怒りを表現していたつもりでしたし、そのことが、私にどんな深刻な影響をもたらしているかもわからないまま、セラピーを受けなければいけないという緊急性を感じてはいなかったのです。 怒りと私 「怒りと私」というタイトルで文章を書くとしたら、どれだけでも書けるほど、怒りは、私の人生を埋め尽くしてきました。 実際に、私が受けてきた性的被害は、私が怒りを持つことの正当性の証明のようでもありましたし、小学生の頃から夫婦関係の愚痴を母から毎日聞いてきたことは、複雑性PTSDの原因になったのは当然ながら、不在の父性に向けられる激しい怒りの土台にもなりました。 「男は悪い生き物なんだから、傷つけるくらいでちょうどいい」という私の考えに疑問が浮かんだのは、夫と出会った20代の半ば頃です。ですが、「もう、この考えは改めなくてはいけない」と気がついてからも、どうすればそれを止められるのかはわからないままでした。 ファミリーコンステレーション的には、それは、親から譲り受けた信念であり、その信念を持っていることで、親を助け、親から愛がもらえると思い込んでいたのでしょう。 インナーチャイルドワーク的に言えば、私は、怒ることで自分の孤独と絶望を隠し続けていたのでしょう。 そして、脳神経科学的に言えば、それは、もはや、私の神経系統に染み付いた、馴染みのある神経回路とホルモン分泌の反応であり、Fight or Flight反応(戦うか逃げるか反応)を繰り返し続ける、身体が記憶するトラウマだったのでしょう。 ですが、当時は何もわからないまま、私は「どうすればいいのか?」という問いと共に、様々なセラピーを渡り歩いていました。 そして、少しずつ道が拓けながらも、第二子の男の子を出産したことで、さらに私のその信念は見過ごせないものとなっていきました。 「男性を許さなければ、この先にはいけない」という気持ちが、可愛い我が子を抱きながら、差し迫ったものとして感じられました。 セラピーの恩恵 前後しますが、そんな思いとともに、アクティブ瞑想や女性性の癒し、ボディワークを受け、トレーニングを重ねてきました。 あらゆるワークが、多角的に作用し、特別にやり方を変えるわけでもなく、パートナーシップも良好になり、体が健康になっていきました。 最初の妊娠出産の時、私は産後鬱になり、体力もなく、夕方になるとキッチンに立っていられなくなるほど、体力を消耗していました。 ですが、7年かけて、2人目、3人目と出産しながら、高齢になっていくにも関わらず、キッチンに座り込むこともなくなり、むしろとても健康になっていったのです。 「産む度に元気になるね!」と夫の母が言った時に、「確かに!」と納得したのですが、それがセラピーと瞑想のおかげだというのは明らかでした。 風邪もひきにくくなり、便秘もなくなり、冷え性もなくなり、病院にいく機会はほとんどなくなりました。 そして、最後に残った気になる症状は、頭痛でした。 ハートエデュケーションセンター 川村法子 続く
  • サバイバー回復レポートVol.4 ハートのスペース 2020年12月17日サバイバー回復レポートVol.4 ハートのスペース
    20.12.17 複雑性PTSD(C-PTSD)は、2018年に、精神医学において、PTSDとは異なるものとして明確化されたと言いますが、知れば知るほど、それは、私のかつての状態に酷似しています。 長期的、反復的に恐怖に晒され続けてきた人の複雑化したストレス障害であるC-PTSDは、感情コントロールの難しさや、人間関係の難しさ、体の感覚の麻痺や鈍さ、自律神経の乱れによる身体症状(頭痛など)、中毒的行動、罪悪感を常に感じる、突発的に破滅的行動に出るなど、人生のあらゆる場面で機能不全を生じさせます。 小児期逆境体験スコア(ACEスコア)4というハイスコア群である私が、どのように機能不全状態を克服してきたのか、少しずつ振り返りながら、綴ってみたいと思います。 便秘と冷え、長引く風邪症状がなくなった 30代前半で、すがるような思いで飛び込んだインナーチャイルドセラピー。受け始めて1年ほど経過した頃、小学校高学年から慢性的に続いていた便秘がなくなっていることに気がつきました。 特別なことは何もしていなかったので、治ったなんて信じられず、偶然だろうくらいに感じていましたが、セラピーを受け出して1年半経った頃には、もはや便秘はしてないことを認めざるを得ず、2年経った頃には便秘だった過去を忘れているほどでした。 そして、いつも手足が冷えて冷たかった症状も次第になくなり、年に2、3回くらいは1ヶ月ほど長引いていた風邪症状(特に咳)がなくなり、気がつくと、風邪をひくことそのものも少なくなっていきました。 それでも、やはり、長年の悩みであった、頭痛は残り続けました。 ※この3年ほどの集中的アプローチで、頭痛はかなり改善してきたので、別途レポートを書いてみたいと思います。 もうほとんどないと言ってもいいくらいの頭痛ですが、ここまでいくつもの症状の治癒経過からわかるのは、私の内側でなり続けていた危険を知らせすアラートが収まり、ストレスホルモンが減って、自律神経が正常に働くようになり、内臓機能をはじめ、筋肉など、体のあらゆる部分が、正常な機能を取り戻してきたからでしょう。 セラピーを受け始めた当時は、これらの書籍にあることは知りませんでしたし、当時は出版すらされていませんでした。 ですが、改めて、自分が辿ってきた道のりを振り返った時に、実際に私が受けてきたセラピーが、まさにこの書籍に書かれてあるような質のものであり、私が辿ってきた道のりが間違いではなかったと知りました。 実際に、トラウマの癒しがどれほど大切かということがわかってから、香港で受けたソマティック・エクスペリエンスのワークは、とてもとても印象的であり、その癒しの大きさは、想像をはるかに超えていました。 そしてこのセッションが、私の頭痛が治癒へ至るための大きなブレイクスルーとなりました。 自由って怖い セラピーを受けだしてどれくらい経った頃でしょうか、3年目くらい・・・?おそらく2年以上は経っていたと思います。 ある時、セラピストの誘導で感じた自分のハートが、とても広くて、まっさらで、大きくて、どこまでも無限に広がっているスペースだと感じました。 その時、何があってそう感じたのかの詳細を記録していないのですが、記憶にあるのは、それまで私は、ハートの中にたくさんのガラクタを詰め込んで、狭く、窮屈な状態で、ガラクタを背負いこんでいたということです。 思えば、私の人生にはずっと悩みがあって、悩みがないなんて信じられない状態を生きてきました。 そして、あまりにも苦しくて、セラピーの道に入り、数年かけて、やっと本来の自分のハートの状態を取り戻したのです。 ですが、その広く大きなスペースを前にした時に、最初に感じたのは<恐怖>でした。 「こんな広く大きなスペースで、私は何をしたらいいの?」 「何をしてもいい、自由でいいって、なんて怖いことなんだろう」 それが本音でした。 そんな私の震える小さなインナーチャイルドに向かって、「じゃあダンスでも踊ってみたら?」というセラピストの言葉は、私の内側を緩ませ、とめどなく涙が溢れたことを覚えています。   深くなる呼吸とゆるし そんな自由への恐怖を、意識的に通過してみると、実際には、その恐怖は長続きしませんでした。 呼吸は深くなり、内側が広がって、ますます自由になっていく感覚を、私の心も体も喜んでいて、この感覚を止めるものはありませんでした。 そんな体験を通して感じるのは、人は、気持ちよくあること、良くなること、幸せなことに、自然に従っていけるということです。 そのためには、まず、私が体験したように「ガラクタを溜め込んだハートの状態は窮屈だ」と認識する必要があります。 複雑性PTSDのような、幼い頃から長期的、慢性的なストレスに晒され続けた人たちは、その状態が当たり前だと思っているので、認識そのものにひずみが生じています。 また、その苦しみの中でなんとか生き続けるために利用してきた<防衛>も頑丈になります。 「こうすることで親を助けられる」「こうしていたらなんとか家族が崩壊しないで済む」という子どもっぽい信念が膠着化して、無意識化で作用している場合、ガラクタを手放すことは怖いですし、それがなければ自分でいられないと思うのは当然です。 手放す、許すというのは、トラウマサバイバーにとって簡単なことではないのです。 そんな時は「手放せばスッキリするのに、私ってどうして手放せないんだろう!?」ではなくて、「今までそうやって生き抜いてきてくれてありがとう。」「そうすることしかできなかったね。」「一生懸命頑張ってきたんだね。」と、まずは過去の自分に共感を向けることから始める必要があります。 その上で、「もうそのやり方は、今は必要ないんだよ」「新しいやり方に取り組むのが怖くっても当然だよ」「あなたのタイミングで手放していいよ」「一緒に新しいやり方にトライしていこう」という、成熟した大人としてのあたたかい保護の眼差しを、自分自身に向ける必要があります。 また、この成熟した大人の視点は、深くなる呼吸とともにもたらされるというのも、大切なポイントです。 インナーチャイルドワーク(セラピー)を有効なものにするためには、成熟した大人の視点を持つこと、つまり、呼吸を深くして、意識的であることが、とても大切なのです。 そして、この成熟した大人の視点こそ、ハートのスペースに存在するものなのです。 ハートエデュケーションセンター 川村法子 続く
  • サバイバー回復レポートVol.3 <2種類>のセラピー 2020年12月3日サバイバー回復レポートVol.3 <2種類>のセラピー
    20.12.3 逆境的小児期体験スコア(ACEスコア)がハイスコア群の4で、深刻な身体的精神的症状に苛まれていた私が、どんな風にこの15年で回復してきたのか、改めて辿ってみたいと思います。 自分に起こっていることを整理する力 かつての私がそうであったように、混乱した頭で、混乱した現実に直面してる時、八方塞がりでどうしていいかわからなくなります。 いまだに思い出すある出来事があります。 今から、13、14年前、今年15歳になる娘が、1、2歳くらいのときですが、娘の爪が伸びっぱなしで、私は、なかなか切ってあげることができませんでした。 日中は落ち着いて切らせてくれない。 切ろうとすると泣き喚く。 それに対応できないから、爪切りをやめる。 娘が夜寝る時間は、私が疲れてぐったりしてしまう。 だから、もう毎日どうしていいかわからない。。。 と、今思えばこんな些細な出来事は、当時の私にとっては、日常の中でとてつもなく深刻な問題になっていました。 夫の母が、親業など、長年カウンセリングなど学んできた人なのですが、当時、夫の母に電話で相談したときに、「そうなのね。いま、混乱して、葛藤してるんだね。」と、夫の母が私の状況を整理してくれたことで、私は、一瞬時が止まったかのようにハッとしました。 「そうか、私は、混乱して、葛藤してるんだ。」と、当たり前のことですが、自分のことを客観的に見ることが出来ました。 その日の夜に、興奮して、夫にそのことを伝えたことを思い出します。 「今日、すごいことに気がついたの!そうよ!私は、混乱してるし、葛藤してるの!」って。 当時の夫の反応そうであったように、混乱して葛藤したことない人は、「だから何?」と言って笑うかもしれませんが、その最中にある人にとっては、とても大切な気づきの一歩なのです。 トップダウンセラピー ちょっと前にセラピー系の情報として出回っていたこの画像に日本語訳を入れて、少々アレンジしてみました。 左側のトップダウンセラピーという表現は、トラウマ治療で有名なヴァンデアコーク博士が提唱したものだと、発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療(杉山登志郎著/2019)で知りました。 今生じていることを整理して、自分ができることを選択するという意味で、私が体験した娘の爪切りについての発見は、認知行動療法的な気づきなのだと思います。 その意味で、当時の私の体験は、トップダウンセラピーと言えますね。 それ以来、娘の爪が切れないことで、葛藤はしなくなりましたが、じゃあ、どうやったら、爪を切れるようになるのか、そのような混乱や葛藤、もっといえば、持つ必要のない罪悪感で自分を責めることがなくなるのかというと、この図の右側のボトムアップセラピーが、必要となります。 ボトムアップセラピー ボトムアップセラピーとは、まさに、この考え方を提唱しているヴァンデアコーク博士の専門、ソマティックエクスペリエンスなどのトラウマ療法のことで、身体機能、身体感覚にアプローチするものです。 ハートエデュケーションセンターが提供している、インナーチャイルドワークは、自我ワークと呼ばれますが、無意識に存在する別々の人格(パーツとも呼ばれます)と対話しながら、愛によって統合していくものです。 日本では、少々誤解されている節もありますが、本来インナーチャイルドワークは、無意識の防衛を理解し解くこと、つまりアダルトチャイルドとの和解という土台の上でなされるものです。傷ついた、かわいそうなインナーチャイルドを癒すという理解だけでは、自我ワークとは言えず、また効果も一時的なものに止まってしまいます。 また、ファミリーコンステレーション(家族の座)とは、家族がどのように関わっているか、その無意識の構造を明らかにしながら、家族の中の《もつれ》をほどき、最善の状態へと導く手法です。 私自身も、最初にそれを体験したとき、また、その後トレーニングの最中で、目の前で展開される出来事に驚き続けました。それくらい、ショッキングであり、感動に満ちていて、人の奥深さ、魂や愛と呼ばれるものの偉大さに、ただ、首を垂れたくなりました。 私自身が、インナーチャイルドの理解を土台としてトレーニングに臨んだからとも言えますが、ファミリーコンステレーションとインナーチャイルドワークは、ある部分で深く結びついたワークのように感じます。 そして、インナーチャイルドと言われる自我(パーツ)の認識だけでは触れられない、さらに深い場所に、ファミリーコンステレーションは誘ってくれます。 ただ、自我について理解していなければ、ファミリーコンステレーションでタッチできるものも浅い場所に止まります。 つまり、自我を認識し、対話し、統合するプロセスが進んでいなければ、家族の《もつれ》を解く準備もできていないと言えるのです。 癒しの準備 私自身は、個人的に、ソマティックエクスペリエンス、それに近い身体的アプローチのメディテーションやワーク、インナーチャイルドワーク、ファミリーコンステレーションというボトムアップセラピーから、多大な恩恵を受け取ってきました。 ですが、それには、とても時間がかかりました。 金銭的な都合や時間はもちろん、私自身の成熟がなければ、ワークを深めていくことはできませんでした。 これらは、成長を望む大人が、学びたい、知りたいという自らの意志で選択して、現実を整えながら、探求にチャレンジしていくことで、癒しの効果がより大きくなるものだと言えます。 残念ながら、その意味で、即効性があって、万能なものとはいえません。 それでも、インナーチャイルドワークを世界的に広めた、ジョンブラッドショーは、「インナーチャイルドワークの効果はとても早い。」と熱く語っています。 私も、様々なセラピーを渡り歩きながら、インナーチャイルドワークの効果の大きさと速さに納得します。 ただ、それは、一朝一夕にはいかないという意味で、即効性はないのです。 以前、私たちが提供するワークにいらしたある参加者さんは、目の前で展開したことをみて、怒り出しました。 「こんなもの信じられない!」と言って、ワークの途中で、過去の家族への憎しみや、出来事のドラマのあれこれを語り出しました。 「今それを語る必要はありません。」と冷静に伝えても、なかなかその人のおしゃべりが止まらなかったのは、その人に事実を整理するためのトップダウンセラピーが足りてないとも言えますし、ボトムアップセラピーが足りてないから、歪んだ認知と抑圧された感情に翻弄されて、反応が止まらなくなったのだとも言えます。 残念ながら、その人は、癒しを受け取る準備ができていなかったのだと思います。 画像右側ボトムアップセラピーの例として一番下に書いてあるEMDRとは、眼球運動によるトラウマ療法ですが、トラウマについて言語化できない幼い子どもや混乱の真っ只中にあり、内的な感覚を整理できない人にとって、とても有効な治療法だと言われています。 医療関係者のみが提供できるというEMDRは、過去のドラマを語り出すほど混乱していたその人には、有効だったかもしれません。 ハートエデュケーションセンターでは、「学びたい」「知りたい」という意志を持った方と共に学ぶ、セラピーの私塾です。 私たちは、各種講座で理論を学ぶことで、トップダウンセラピーによる内的な整理をおこなっています。 そして、インナーチャイルドと呼ばれる自我(パーツ)との対話、呼吸や身体感覚を通じた癒し、家族のもつれを解くワークで、ボトムアップセラピーをおこなっています。 そのどちらもが、互いに相乗効果を発揮して、癒しの準備を整えていると言えます。 そんな準備が整った方は、セラピーを受けなくても、日常の中で気づきが増し、あらゆることがセルフセラピーとして、効果を発揮していくのです。 結果は現実に現れる トップダウンセラピーもボトムアップセラピーも、その治癒プロセスや結果は、外からはメモリや数値で観察できませんから、あくまでも自分の感覚だけを頼りに歩む道と言えます。 ただ、もう一つ、治癒の結果として明らかなのは、環境や家族のあり方が、目に見えて変わってくるという点です。 不登校だった子どもが、なぜか学校にいくようになるとか、夫との関わりが変化するというのは、その典型です。 仕事の変化や、人間関係の改善、収入や充実感などの人生そのものの豊かさの体験も、同様です。 ですから、逆にいうと、この現実的な変化がなかなか起きないというのは、実は認知能力が、まだ回復してない状態と言えます。 混乱してると、1回のセッション(グループワーク)で得られることの幅も小さいです。 まさに、私が体験したように「私は、娘の爪切りで自分が葛藤してるんだ。」と認識できたくらいの、ある人から言わせると「だから何?」というようなレベルの気づきです。 ですが、その小さな気づきを繰り返すしか、やはり癒しは生じません。 この画像が示すように、その小さなステップを繰り返すしか、はしごの高みには登れません。 やってもしょうがない、何も変わらないのだとしたら、やはりセラピーに取り組むしか変化は起きないというのも、セラピストとして、回復の道を歩むサバイバーとして、みなさんにお伝えしたいと思います。 続く
  • サバイバー回復レポートVol.2<孤独>という病 2020年12月2日サバイバー回復レポートVol.2<孤独>という病
    2020.12.3 ここ最近、しみじみと感じていることがあります。 それは、あれこれセラピーを受けてきたけれど、結局のところ、私の課題は<孤独>だったんだという結論です。 セラピーを受けてきたこの十数年の歩みを、何一つ否定はしませんが、シンプルにこの<孤独>に気がついていたら、また随分と道のりは違ったかもしれないなと思うのです。 もちろん、<孤独>であることも、私の神経の傷だとしたら、私の性格や考え方の問題と言って責める必要はないと感じています。 幼い頃から大人になるまで度重なった性的トラウマ、父の不在、母との癒着、ケアされなかった心の傷。 私には、十分に<孤独>でいてしまう身体的な傷があったんでしょう。 今まさに<孤独>を感じている人にも、かつての私にも、何一つ、自分のせいにする必要はないと伝えたいです。 そして、かつての自分の混乱も、複雑さも、全て抱きしめたいと思います。 それしか知らなかったし、それしかできなかった、むしろ、ここまで生きてきてくれてありがとう、そう過去の私に伝えたいと思います。 その上で、諦めずにセラピーを受けながら、健康であること、幸せであること、自分らしさを探求してきた、私の意志を讃えたいと思います。 幼い頃に、大人によってケアされなかったこと、機能不全の家族の中で間違って受け取ってきてしまった傷は、何一つ子どものせいではありません。 ですがそれを癒していくことは、大人になった自分の責任なんですね。 そして、もはや、<孤独>であることは、個人の問題ではないようにも感じます。 <孤独>は、個人に影響を及ぼしていますが、社会問題としてあらゆるところにはびこっています。 不登校やひきこもりの問題、コロナ禍における女性の自殺の増加は、日本という国固有の問題でもあります。 また、DVや虐待の問題も、私がかつてパニックを起こしていたことも、鬱だったことも、共依存的でパートナーとの健全な関係が築けなかったことも、何もかもの奥底に、日本の社会構造が引き起こした<孤独>という日本人の病があるのを感じます。 不登校やパートナーシップの問題など、現象として現れることは異なりますが、根っこは一緒なんです。 そんな地獄のような苦しみの中で、何かがおかしいと自問し、ただ感情を抑圧したままいることを良しとしなかったことが、何よりも私を助けてきたと思います。 先を見ると、道は長く、いつこの苦しみが無くなるのか見えず、道がどこに向かうのかもわかりません。 ですが、最初に踏み出す一歩からしか、スタートしません。 一歩、そして、また一歩と、傷を癒す旅路は、結局は、小さな一歩のつながりだと言えます。 ですから、サバイバーの回復の道のりには、ただ、その一歩を踏み出す勇気だけが、いつも必要です。 仲間と共に歩むこと、一人にならないこと、自分の<孤独>を見ていること、また、その<孤独>を自分のせいにしないこと。 このような意識の持ち方が、サバイバーの回復の道のりを開拓していきます。 <孤独>という病は、必ず終了させることができる。 今も、私は、そんな気持ちで、回復のプロセスを歩んでいます。 続く
  • サバイバー回復レポートVol.1 考え方は変えられない 2020年12月1日サバイバー回復レポートVol.1 考え方は変えられない
    2020.12.2 「考え方を変える」というフレーズをよく耳にします。 ビジネスコンサルでよく使われるコーチングやポジティブシンキングなどの思考法などは、考え方を変えて、現実をよくしようとするやり方です。 これらは、ある一定の健康を手に入れている人にとっては役立つものだと思います。 ある一定の健康とは、小児期トラウマが限りなく少なく、安定して就労が可能で、誰かとの温かな関係性があり、適度な運動ができて、中毒はなく、悩み事を相談できる相手がいて、自己成長をのぞみ、時にチャレンジできる勇気があって、目的なく自由に楽しむことを自分に許可していて、笑顔のある日々を送っている状態と言えます。 それが可能かどうかは、逆境的小児期体験スコアと呼ばれる、ACEスコアの数値によります。 スコアが限りなく0に近く、小児期トラウマのない私の友人は、ある時本屋で手にしたコーチングの本で、悩んでいた夫との関係性が変わったのだと言います。 私は、心底驚きました。 ACEスコア4というハイスコアの小児期トラウマサバイバーの私にとって、1冊本を読んだだけで、関係性が変わるなんて、夢のまた夢。 長年受け続けてきた対面のセラピーやワークショップ、海外まで飛んだ長期のトレーニングがなければ、私の今のパートナーや子どもたちとの明るい家庭環境は、到底ありえませんでした。 週末になるとぐったりして、寝込んでしまい、子どもたちと楽しい週末の時間が過ごせなかった原因が、ファミリーコンステレーションのトレーニングと個人セッションで明らかになりました。 私が、週末にぐったりしていたのは、休みモードに入った途端、過去に受けた性的トラウマの傷が蘇ってきて、その怒りと恐怖が抑圧された無意識が、私を楽しんだり、喜んだりすることから、遠ざけていたからだとわかりました。 ただ近くの公園に出かけて、子どもたちとボールで遊んで、笑いあうというささやかな喜びすら、トラウマサバイバーの私には得られなかったのだと、自分に優しく気づくことができたのは、セラピーのおかげでした。 ですから、本屋で偶然見つけた1冊の本を読んで、関係性が変わるなどと、トラウマサバイバーの私には到底信じられなかったのです。 トラウマ療法を長年受けてきた私が、実体験としてわかるのは、コーチングや思考法が有益なのは、トラウマサバイバーではない場合だということ。 トラウマサバイバーである限り、考え方を変えるやり方は、むしろ、負荷が大きいと思っていいくらいです。 サバイバーにとって考え方というものは、認知能力を取り戻し、神経の傷が回復する過程で、《変わるもの》ではあるかもしれないけれど、頑張って《変えるもの》ではないということです。 また、「考え方を変える」ということに固執していることそのものが、トラウマサバイバー的思考と言えます。 いつも罪悪感でいっぱいで、自分をジャッジしていて、出口のない問題を抱え、良い人をしながら、いつも怒りは抑圧され、いつも正しい答えを探して、頭の中がぐるぐると渦を巻いている・・・ それは、かつての私です。 私がそうだったように、生きづらさを抱えるトラウマサバイバーにとっては、それが常なので、それ以外の在り方など想像できません。 今こうやって、頭の中がクリアで、もはやアルコールやタバコを摂取する必要はなく、ハートは軽く、考え事はなくて、どうでもいいことで笑い、目的なく楽しむことができて、人前で話すことが可能になり、困った時は信頼できる誰かに相談できて、深刻な会話以外で誰かとつながり、断る時ははっきりNOをいい、自分や愛する人を守るための選択ができて、良い人になる必要はなく、情熱を注ぐミッションがあり、時々は誰かに嫌われているだろうということをOKしている自分がいることなど、全く想像できませんでした。 少なくとも、私は、30数年間、そのような状態を知らずに生きてきました。 続く
  • 思い込みとセルフラブ 2020年10月23日思い込みとセルフラブ
    20.10.23 <思い込み>とは何か 心の世界を渡り歩く時によく使う<思い込み>とは、自分自身を、自分がどんな風に決めているかという<信念>のことを言っているんですね。 通常、<思い込み>という時、そこには「真実じゃないことを、勝手に思い込んでいる」という意味があります。 ですが、心の世界、特に、インナーチャイルドワークでは、そのような意味では使いません。 実際に、幼い子どもの感覚を味わってみるとわかるのですが、思い込んでいた側にも、しっかりとした理由があるからなんですね。 私たちは、いつも内なる子どもたちの側に立つ<成熟した大人>であることが大切です。 <成熟した大人>であるとき、「幼稚な子どもが、勝手に思い込んでいるのは、バカバカしいことだ」と、決して、事態を低く見積もることはありません。 確かに、<思い込み>を紐解いていくと、いつかのどこかで、不必要なものだったのかもしれません。 だけども、それはバカバカしい思い込みではなく、「そうするしかなかった」「それしか選択がなかった」「それこそが最善だと固く信じていた」やり方なんですね。 <思い込み>という言葉を使う時に、そこまで汲み取ってあげられていたら、そして、過去の自分に愛を向けられていたら、きっと、私たちのインナーチャイルドたちも安心しているでしょう。 だけども、そこに、上に書いたような、事態を軽く見積もる自己否定の意味が含まれているとしたら、やはり、<イマココの私>の奥深くで、つまり、潜在意識で、自分を愛していない自分の言葉に、私たちは深く傷ついているのかもしれません。 <セルフラブ>とその勘違い <セルフラブ>とは、過去の間違った自分を否定して、別の自分になることではありません。 それは、過去の自分を抱きしめられるくらい、今の自分が成熟していくことです。 「変わりたい」とか「本当の自分に戻りたい」という強い衝動と決意で、私たちはセラピーを受け続けますが、結果、お金と時間を費やして、現実が変わるか、変わらないかは、<セルフラブ>についての理解こそが、大きな分かれ道となります。 パートナーとの出会いも、仕事の質も、そこから受け取る収入も、育児も、家族関係も、人間関係も、この世に現れるものは、何もかも全てが、<セルフラブ>の在り方によって、完全なるバランスをとって展開しています。 もし、自分を罰するやり方を、<セルフラブ>と勘違いして、自分に向けているとしたら、自分を罰する現実が、目の前に差し出されます。 その意味において、私たちは、みんな、自分の願いを叶えています。 今この時点で、自分が望んでいることのありのままが、私たちの日々に映し出されているからです。 それに気がつくことができたなら、<セルフラブ>の方法を変えるだけで、現実が大きく変わることもあるでしょう。 現実は、いつも<セルフラブ>のバロメーターです。 現実の痛みから、<セルフラブ>の在り方を、再びチェックすることもできるようになります。 大切なことは、それだって一つの自由な選択です。 変えることだってできるし、変えないことだってできる。 変えることは正しさではなくて、一つの自由だということ。 どんな風に自分に愛を向けていたとしても、私たちの自由意志が尊重されているという事実に気がつくことは、<セルフラブ>の輪郭を知るための最初の一歩です。 私たちの現実は、何を見せてくれていますか。 そこから確認できる<セルフラブ>とは、どんなものでしょうか。 それは、本当に愛でしょうか。 それとも、痛みが愛と勘違いされているのでしょうか。 ※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。
  • 小さな準備 2020年9月4日小さな準備
    2020.9.4 ハートエデュケーションセンターが提供しているインナーチャイルドワークとは、シンプルにいうならば、自分が普段知らず知らずに使っている防衛という戦略を見抜いて、それを落としていく作業のことです。 防衛というくらいだから、それは、つまり、何かをかばっているということ。 では、かばっているのは何なのでしょうか? それは、まさに弱い(と思い込んでいる)自分であり、認めきれない自分であり、痛みであり、苦しみのことです。 だけど、防衛というのは、ほとんどの場合、無意識で発動されていて、それが防衛だと気がつくことそのものが、容易ではありません。 さらに、それが防衛だとわかったとして、その奥にある痛みに触れることは、どれほど勇気が必要でしょう。 ずっと隠していた何かを、簡単に表に出せるほど、私たちは、この世界を信頼してはいないのです。 つまり、その弱みを外に出して生きていけるほど、自分が強いと信頼しきれていないということです。 自分への信頼が確立されるまでは、その防衛は防衛として認識されません。 つまり、防衛は解かれないのです。 自分こそが、弱みを受けとってくれると安心できるまでは、防衛は、正論として立派にそこに居続け、役割を果たし、私たちは、無意識にそれを振舞い続けます。 だけど、そうしている間は、ちっとも自分を生きてはいないのです。 むしろ、すべてが、防衛によって選択されていて、私たちの人生は一向に花開かないままなのです。 だからこそ、まずは、防衛の構造について理解してみるといいでしょう。 学んだからといって、それが、自分のことだって、決めつけなくてもいいし、責めたり反省したりしなくていいのです。 「こんな風に防衛が成り立っている」「こんなことがあり得る」っていう、そんな地図を手に入れるだけで十分です。 そうしたときに、ふと、自分の中に気づきが降りてくるでしょう。 それは、その防衛というガチガチの正論の一瞬のほころびを見るような感覚に近いかもしれません。 そして、その一瞬のほころびを見逃さないでいてください。 そうして、それが、防衛だって知った時、私たちは、ようやく、その奥にある痛みに向かい合う準備ができるのです。 こうすれば良いっていうノウハウは巷にあふれています。 それらに従うことは確かにある程度までは意味があるでしょう。 だけども、防衛の奥にある痛みに向かい合うことなく、防衛は解除されません。 つまり、本当の自分の選択はできず、人生は花開かないのです。 本当に自分を生きたいなら、まずは、痛みに向かい合う準備をしてみましょう。 小さな準備でいい。 水筒と食べ物をリュックサックにつめて、これから、自分だけの花を見つけに行くハイキングにでかけるような気持ちで。 ワクワクとドキドキに満ちながら、ただ、準備をしてみましょう。 それだけで、人生の流れは大きく変わっていくでしょう。 本当の運命、生きたかった人生がスタートするのはそれからです。 ※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。
  • 黄金の鳥は木のかごにいれよ 2020年8月20日黄金の鳥は木のかごにいれよ
    2020.8.20 ヘンゼルとグレーテルの話に引き続き、童話について語ってみたいと思う。 グリム童話の「黄金の鳥」という物語の中で、一人の王子が、黄金の鳥を捕まえに行き、それを狐が手助けするという場面が描かれている。 狐は、王子に黄金の鳥を捕まえるためのいくつかのアドバイスをするが、そのうち何度かは、王子がそれを聞かなかったため、困難な状況に陥ってしまう。 そのアドバイスの一つが「黄金の鳥を捕まえたら、きらびやかな金のかごではなく、必ず質素な木のかごに入れて持ち帰ること」という不思議なものだった。 王子は、黄金の鳥を見た瞬間そのあまりの美しさに、木のかごは不釣り合いだと思い、装飾の施されたきらびやかな金のかごに入れて持ち帰ってくる。 そして、結果、王子は捕らえられて、命の危機に瀕してしまう。 狐のアドバイスは、おとぎ話の単なる気まぐれかと思いきや、実は、人の心理の深みが描かれているのだと、日本で最初のユング派分析家である河合隼雄氏(1928-2007)はその著書の中で語っている。 そして、40年も前に書かれた氏の考察は、現代の癒し業界への警鐘のようにも感じられるのだ。 この物語は、王が大事にしている黄金のリンゴの実が盗まれるという事件からスタートする。 そして、それを盗んでいるのは、どうやら夜に現れる黄金の鳥だということがわかり、そのリンゴ泥棒の犯人である黄金の鳥を捕らえるために、王子が旅に出るのだ。 心理的象徴として、黄金のリンゴがなくなるというのは、現実に生じているなんらかの危機を示している。 また、その原因である、夜中に現れる黄金の鳥とは、潜在意識に潜むもの、例えばトラウマであったり、なんらかの思考体系であるとわかる。 だけども、同時に黄金の鳥は、ギフトを示してもいる。 つまり、それを、潜在意識の闇の中から拾い上げてくることができれば、現実に生じている危機も超えられるし、そこから新しい可能性も広がっていく。 だけども、黄金の鳥は、質素な木のかごに入れて持ち帰らなくてはいけないのだ。 決して、装飾の施されたきらびやかな金のかごではダメなのだという。 なぜか? つまりこれは、「どんな心の内側のものであっても過大評価したり、ポジティブシンキングによって飾り立てたりすることなく、ありのままを見よ」というアドバイスなのだ。 ただ、それを、まっすぐな目で捉え、認識する。 それができなくては、せっかく黄金の鳥を捉えても、命の危険に晒される。 つまり、事実をきらびやかなもので包み、飾り立て、ポジティブシンキングで都合の良いものに仕立て上げることは、人を、癒しではなく、むしろ危機に追い込んでしまうということだ。 まっすぐな目でそれを捉えることができないのは、恐れによる防衛だ。 人は、誰もが痛みを認識するのを怖がっている。 過去に生じた「残念な事実」を認めるのは、何より許しがたい。 そんなとき人は、実際の出来事や自分の過去の痛みを、正当化し、問題をなかったことにしてしまう。 考え方が良くなかったと、自分を責めることもあるかもしれない。 そうして、潜在意識にあるものを飾り立て、事実を見ないまま、顕在意識(目の前の事実)へ戻ってきたとき、そこには何が残るのだろうか。 おそらくそこにあるのは、何も変わらない痛みを伴う現実でしかない。 事実に向かい合わないやり方、つまり、こう思い込めば「痛くない」「苦しくない」とする、事実に砂糖をまぶしただけの一時しのぎは、現実を変えていくものではない。 1度や2度は、それでもいいのかもしれない。 ただ、それを継続していったとき、まぶされた砂糖の分厚さは、防衛の厚みと同じになってしまうことをわかっていたい。 つまり、それは、危険度を増していく。 現実はさらに複雑化し、良いことをやっても、いい風に考えても、何も解決はしない。 なぜか想定外の痛みがやってきて、現実はいつも困難続きだ。 自分はそんな運命だからと諦めるのか、もしくは、その痛みも結局幻想だからと開き直るのか、どちらであっても、痛みに真正面から向かい合っている姿勢とは程遠く、それをやっているうちは、やはり、砂糖まぶしの防衛止まりだということを理解していたい。 つまり、このことは、ギフトを現実にもたらす、癒しと変容とは全く別物であることを、「黄金の鳥」の物語は、はっきりと私たちに伝えてくれているのだ。 黄金の鳥は木のかごに入れよ。 真実は、飾り立てることなく、ありのままに、まっすぐ捉えよ。 事実はただ、事実のまま受け入れよ。 そのとき、隠された宝が見えてくる。 それが、この「黄金の鳥」の物語に込められたメッセージだと言える。 《関連のハートメッセージ》 ※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。
  • 変わりたくない 2020年8月11日変わりたくない
    2020.8.11 たくさんの素晴らしいセラピーが、10年前よりも、確実に広く伝えられていると感じています。 それだけ多くの人が心に目を向け始めたことの表れなのでしょうし、そうせざるを得ない状況に、確かに社会が向かっているようにも思います。 その流れの拡大と比例するように、「本気で変わりたい」という声も、たくさん聞くようになりました。 ハートエデュケーションセンターのワークでも、本質的な変容こそが、いつも目指すところであるのは事実です。 「人は自然の一部だから、自然が変わりゆくように、人も変わっていく。」 「本当の変容は、静かに、自分が気がつかないうちにやってくる。」 というようなことを、講座で何度も伝えてきたように思いますし、実際に各コースに参加中の方たちは、そんなことを体験中かもしれません。 そして、それをセラピストとして目の当たりにさせてもらえることは、この上なくありがたいことです。 私自身が辿ってきた道であり、現在進行形でもあるからこそ、共にその道を歩む仲間として、応援したい気持ちや信頼が自然と湧いてきます。 セラピーをスタートする以前、人生のどん底をなんとか這い上がった後、大混乱の渦の中にいた15年前と、全く違う自分を今生きているからこそ、私に生じたことを、いくつかの大切な理論に落とし込んで、今、自信を持って人に伝えています。 さて、そんな《本気で変わることを望む人》を全力で応援しているハートエデュケーションセンターですが、ときどき感じることがあります。 それは、多くの人は「変わりたい」というけれど、「変わりたくない」っていう人はあまりいないな・・・ということです。 確かに「変わるのは怖いから、このままでいたい」なんていう人が、どうしてお金と時間を使って、わざわざセラピーの場に来る必要があるというのでしょう。 なんだか矛盾したようなことを語っているように感じるかもしれませんが、「変わりたい」と本気で思っている人たちに、伝えたいことがあります。 それは、どうか「変わりたくない」という怯えた自分に、一度でもいいから触れてみてほしい、ということです。 「本当は、怖くって、変わりたくなんかなくて、その場所から一歩も前に進めない。」 「この場所から出て行ったら、どう生きていっていいかもわからない。」 一度でもいいから、そんな絶望的な場所にいる自分を感じてほしいのです。 誰だってポジティブでいたいし、痛いのも苦しいのも好きではありません。 キラキラ輝いていたいし、健康的でまともな大人のふりをしていたいでしょう。 だけど、自分が、どれだけ内側で怯えていて、変わることを恐れ、一歩も踏み出せないって信じ込んでいるのか。 それを知ったら、そこにこそ愛を注げたら、そこから生命が蘇るのです。 絶望のどん底。 完全なる敗北者。 かつてあるワークの最中に、そんな自分に触れて、私は、しばらく床に伏せたのちに、自らの力で立ち上がりました。 心の奥深く、誰も知らないような感情の船底に、敗北者となって、力を失い、倒れている自分。 それを知ることは、決して悪いことじゃないどころか、自分自身を取り戻すために、とても大切なことでした。 その船底に沈んだ自分は、救いようがないほど瀕死で、このままだと生きていけないからと、意識の奥底に、隠され続けてきたのです。 そんな自分を見ないまま、「変わりたい」と叫んでいるとしたら、救われないままの死にかけた自分は放置され、変わろうとしても変われないというジレンマが、続いてきたことでしょう。 インナーチャイルドワークは、セラピーの過程で、どれだけこの瀕死の自分を救い出せるのか、ということにかかっています。 何度も繰り返し、船底に潜って、子どもたちを救い出す。 その繰り返しの先に、静かに新しいステージを生きる自分と出会うことができるでしょう。 それは、その子を抱きしめられる、成熟した大人の自分が、内側に育った証です。 「変わりたい」と言い続けた先に、「変わりたくない」っていう自分を見つけたとき、私たちは、本当に、変わります。 変わろうともがき続けるのではなく、とても、自然に、自らの力で立ち上がり、生きる世界が180度変わるのです。 それは、別の表現をすれば、気づきによって、360度、世界がひらけて、自分は一歩もその場所から動かないのに、新しい世界が見えることかもしれません。 セラピーとは、意識の船底にある真実に何度もタッチしながら、自らのパワーを取り戻し、世界を見る目を変化させていくことなのです。 ※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。
  • 人を平気で傷つける子には、何が起きているのか? 2020年7月28日人を平気で傷つける子には、何が起きているのか?
    2020.7.28 人の気持ちに無関心な親と子 子どもの親として、セラピストとして、子どもたちを取り巻く諸問題に関わっていると、傷つき悩みを抱える子どもたちの多くが、人の気持ちを想像できる子たちだと気がつきます。 また、その逆で、人を平気で傷つける子やその親が「なぜか、人を傷つけてしまって困っている」とか「うちの子は、平気で友達を傷つけるので、なんとかしたい」と相談をしにくることはあまりなく、もちろん、100%とは言いませんが、彼らが人の気持ちに関心が持ちにくいということが伺い知れます。 そして、多くの場合、人を平気で傷つける子本人や、その親は「悪気はない」「遊びのつもり」「気にしすぎだ」「傷つく方が問題だ」という、強者の理論に立っています。 いじめ防止授業などで、学校が積極的に「悪気はなくても、相手がそう感じてしまうことがある」と「遊びのつもりだったでは済まされない」などと、当然のことを丁寧に言語化して伝えても、人の気持ちがそもそもわからない子たちは「いじめられる方が悪い」などと、陰では傷ついている子をバカにして笑っている現状が、残念ながら存在します。 そんな現状を知ると、「子どもたちに一体何が起こっているのか」「世の中どうなっているのだろうか」と、その原因追及をしたくなったり、責任の所存を考えたりと、正直、行き詰まるような気持ちになることもあります。 被害を直接受けた立場なら、尚更でしょうし、自分へ生じることだけではなく、大切な友人やクラスメイトに生じていることについて心を痛めている子にとっても、状況は深刻です。 仕事柄、多くの活動家や専門家たちが、心の大切さやいじめ防止について警鐘を鳴らしている記事やニュースを読みますし、そういった活動にも注目していますが、実際には、現場にはまだまだたくさんの誤解があり、残念ながら未成熟だと言えます。 そのような状況下にあると、子どもに生じた出来事が、怪我や大きな事件事故でなく、感情問題であれば、どれだけ深い傷でも、親は周囲の相変わらずの状態に呆然とするのみで、それ以上どうすることもできず、子どもの心の痛みが放置されてしまうことがあります。 ですが、心の傷は、放置することでは、治りません。 よくいう「時間が解決してくれる」というのが、全くのでたらめだということは、心の世界を深く知る人たちにとっては、周知の事実です。 この外側には見えない心の傷に、周囲がどのように気がついて、ケアしていけるのかが、常に課題です。 子どもは本当にピュアなのか? 子どもはとても純粋だと言われますし、それはある意味、真実かもしれませんが、いじめの被害者になったことがあるとしたら、加害者の子を純粋だと思えるでしょうか。 本当は、世の中には悪い子なんかいなくて、みんな心の奥には善良さがあるということに頷くことができるでしょうか。 実際に、深刻ないじめを受けてきた本人やその親が、そう思うことは難しいはずですし、第三者として相談を受ける立場にあっても、時々耳を疑いたくなるような出来事を聞くこともあり、正直「子どもたちは本当にピュアなのか?」と疑いたくなることもあります。 そんな個人的な感情のゆらぎを越えながら、それでも、この問いについては、「イエス」という1つの答えしかないと、心の世界を探求するものとして、着地します。 なぜなら、人の気持ちが想像できず、遊び気分で、簡単に人を傷つけて、開き直ってしまう子どもたちは、「自分の感情がわからない」という問題を抱えていて、生まれながらに心根が悪くて、そうなっているのではないからです。 「悪気はない」「遊びのつもり」「気にしすぎだ」「傷つく方が問題だ」という言い訳で、相手を簡単に傷つけてしまう子は、それを繰り返しますし、どれだけ言っても、なかなか行動は治らないということはよくあります。 そして、彼らの親も同じような態度をとりがちです。 その子たちが、自分の心の傷や、その痛みを訴えても、まず親たちが、それを理解してこなかったので、感情的な痛みがケアされないまま成長してきてしまったのですね。 そういった対応をする親たちは、「うちの子は、何も言わないから大丈夫」「男の子ってそんなもの」「子どもはそうやって成長していくもの」と、あっけらかんとして見せますが、実は内情を聞くと、「実は、なんども我が子の問題を感じてきたけど、どうしていいかわからないし、これ以上考えていると、我が子を信頼できなくなるので、周囲にもなかなか相談できず、放置している」という状況があります。 実は、彼らの悩みこそ深く、それゆえに、なかなかオープンになりにくいのです。 フェルトセンスって何? 幼ければ幼いほど、子どもたちは、感情を説明するための十分な言語を持っていません。 怒りは怒りという言語で理解されるのではなく、体が熱くなるとか、足を踏みならしたくなるとか、叫びたくなるという体の反応で感じられます。 不安は不安という言語で理解されるのではなく、ひんやりするとか、ドキドキするとか、ぼーっとするという体感覚がやってきます。 これは、もちろん、子どもによって様々で、状況によっても変化します。 このように体で感情を感じることを「フェルトセンス」といいますが、子どもたちの生きる世界では、感情は、まさにこのフェルトセンスで認識されます。 そして、それを大人たちが軽視しているとしたら、子どもたちは、自分で自分の感情を理解する機会が持てず、感情の行き場を失います。 感じるなという禁止命令がもたらす害 「気にしすぎるな」「強くなれ」「男だろ」「泣くな」「弱虫!」「黙りなさい」などと繰り返し言われて育ったとしたら、子どもたちは、「感情は感じてはいけない」という禁止命令を受け取っています。 つまり、大人に言われた通りに、自分の感情を否定してきてしまい、感情の扱い方を知らないので、他人の感情にも鈍感になるのですね。 否定したとしても、感情はあり続けますから、子どもたちは、内側にくすぶる抑圧された感情に居心地の悪さや、感じてはいけないという罪悪感を持ち、それを誤魔化そうとして、他人を傷つけて笑い者にしたり、暴力暴言などの刺激によって、その不快なフェルトセンスを意識しないようにします。 彼らに、周囲の大人が「どうして、人を傷つけるんだ?」「人の気持ちを考えなさい」と当たり前のことを言ったところで、その子は理解できません。 その子にとってみたら、自分の気持ちこそが、今まで尊重されず、理解もされず、むしろ感情は感じてはいけないという禁止命令を受け取ってきて、もはや、自分の感情を認識することができないのですから、今更、他人の気持ちを想像するということなどできないのです。 ということで、実は「悪い子はいない」と言えますが、「自分の感情を理解できないので、人の感情を理解することもできない子はいる」と言えます。 また、「大人のいうことを素直に聞いて、自分の感情を抑圧してきたピュアな子は存在する」と言えますが、「生まれた時から、悪意に満ちて、人を傷つけることを望んでいる子はいない」とも言えます。 仮に、幼い頃からなぜか悪意に駆り立てられて、親も困り果てるくらいのことをしてしまう子がいるとしたら、それにすら実は、心の世界からの1つの返答が存在します。 それは、その子が、家族の隠されてきた秘密を引き受けているということです。 これについては、ワークで実際に見て、体験して、理解するしかありませんが、1つの心の型としては、よくあることです。 ということで、実は、どんな状態でも、子どもたちは本来ピュアだと言えます。 ですが、そのことを理解していなければ、「平気で人の気持ちを傷つける子は悪い子だ」というレッテルを貼ることは簡単です。 その子たちの親も、自分の感情を丁寧に扱ってきたことがないので、我が子の感情に向かいあうことができず、「大したことではない」「遊びだった」「子どもなんてそんなものだ」と無責任に放置したり、軽く見積もっています。 そうした負の循環の中で、自分の感情を丁寧に扱うことを教えてもらえなかった子どもたちは、謝罪したり、相手の痛みを汲み取り、感情に共感したりする大切な機会をどんどん失っていくのです。 それを防ぐためには、なるべく早い段階から、子どもたちの心の声に、大人たちが耳をすましていること、また、大人たち自身が、自分の心の声に、耳をすましていることが大切です。 人の心を平気で傷つける子どもたちをこれ以上増やさないために、大人たちが「痛みを気にしない強い子を育てる」という時代錯誤の間違った考え方を捨てて、心について学ぶ場が、ますます必要となるでしょう。
  • ヴォイドタイムの過ごし方 2020年7月15日ヴォイドタイムの過ごし方
    2020.7.15void(ヴォイド)という言葉を辞書で検索すると、空虚、空っぽという意味がある。 この言葉を、心のプロセスで利用すると、「気づきや変化の生じない単調な日々」という意味になる。 意識の変容の共に、現実をじゃんじゃん変えてきた人たちにとって、突然にやってくるこのヴォイドタイムは、あまり良いものには感じられないかもしれない。 「あれほど、毎日が、気づきと刺激と変化にあふれていたのに、最近なぜか、何も生じない・・・」 すると、「自分の変化はもうここで行き詰ってしまったのか・・・」とか、「結局過去の気づきや変容は幻想だったのかもしれない・・・」とか、最悪の場合には「心の道の探求なんてやめてしまおう・・・」なんてことを思ってしまったりもする。 だけど、このヴォイドタイムこそが、とても重要なのであり、ここを超えてこそ、さらにもう一歩自分の本質に近づけるのだ。 それに、変容だけが、重要だというわけではなく、変容が「動」だとしたら、ヴォイドは「静」であることを忘れてはいけない。 「静」と「動」のエネルギーは対になり、互いに互いを助け合っていて、どちらが欠けていても不完全なのだ。 また、ヴォイドを避けたいと思っているとき、刺激や変化を求め続ける自分がいることにも気がついていたい。 刺激とは、言葉通り刺激的で、私たちを興奮させる。 内側に中毒性の恥があればあるほど、刺激にひかれてしまう。 人生の大混乱や、不安定さ、感情のアップダウンによって、いつも苦しみと大袈裟な解放物語の乱高下を繰り返している人たちは、この中毒性の恥というシャドーに自分を乗っ取られている。 いや、正確にいうならば、「乗っ取られている」ではなくて、「乗っ取らせている」のだ。 理解しておきたいのは、安定とは、しっかりとした軸に支えられて、自然の動きに抵抗せず揺れていられることであり、頑なに動かないで踏ん張っていることでもなければ、軸を失い、迷走し、アップダウンを繰り返し、結果疲弊することでもないということだ。 それは、ただ、外側の動きを問題だととらえて、それによって傷つく自分を選択しつづけているだけだ。 そんなとき、どんな些細なことでも、問題だと認識されてしまうだろう。 問題を問題だと感じてしまう傷ついた自分が、ただ、声をあげ続けている。 「人のバイオリズムは、上向きのときと下向きのときがるから、下向きのときは、頭から布団をかぶって死にたい死にたいと叫んでいるけれど、それを抜けたら、とても楽になる。」と、私に話してきた人がいた。 人生が下向きのとき、つまり、静であり、ヴォイドタイムにあるときに、布団を頭からかぶって「死にたい」と言い続けるのは、決して成熟した在り方とは言えないし、むしろ、それは、傷ついた子どもの未成熟な反応で、それは、健全な自我が育っていないことによって、中毒性の恥に意識が汚染されていることで生じている。 そういう場合、ヴォイドタイムは激しく退屈で、いっときも早く抜け出したい地獄のように感じられるだろう。 だけど、ヴォイドタイム、つまり、静のエネルギーの本質はそんなものではない。 ヴォイド、静とは、自分自身と深くつながり、足元に咲く花の美しさや日々の営みに喜びを感じられるような、満ち足りた時間だといえる。 そんなとき、私たちは、刺激を必要とはしていない。 不安定さも、激しくアップダウンし続ける感情の乱高下も、誰かへの強烈なジャッジメントによって自分を確認するやり方も、外側に反応するものは、何一つ必要としていない。 ヴォイドタイムは、私たちに滋養をあたえながら、次にやってくる、大きな変容を受け取れるような内側の土台作りをしてくれるだろう。 そして、ただ、私は、私と共にあることができる。 静かに、内側に、座り続けながら。 ※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。
  • サバイバーについて考える Vol.8 愛の喪失からの回復のために必要な3つのこと 2020年7月4日サバイバーについて考える Vol.8 愛の喪失からの回復のために必要な3つのこと
    「子どもたちはひどく扱われても、自分の振る舞いを変えれば事態が変わるという望みにしがみつきます。この非現実的な子どもの願望は、周りの大人達は頼りにならず、有害で制御しきれないものだと諦めないように無理に思い込んだ結果、起きてくるのです。」 「よくあることですが、成長した子どもは、虐待者の行為を正当化したり、自分のせいだとせめて、虐待者を保護しつづけます。」 「責任を置くべきところにおくのは、サバイバーが一番したくないことです。喪失に直面するので苦痛になりすぎるからです。」 もしも大切な人が子どもの頃に性虐待にあっていたら/ローラ・デイビス著 虐待を受けている子どもが、虐待者である親をかばうことはよくあります。 虐待のサバイバーたちが、自分が虐待されていたことを認めるのは、セラピー開始から半年以上経ってからということも珍しくありません。 それまでは、それ以外のこと(例えば自分の性格や考え方、パートナーの問題や子ども自身の事など)に問題があると思い込み、生きづらさの原因を見つけようとする彼らが、真の原因は親からの虐待による身体的損傷(神経、シナプス、ホルモン)であることを自覚するのには、認知能力の回復が必要です。 虐待のショックで、認知能力そのものが麻痺しているため、認知までに時間がかかることは当然で、そのことについて彼らに非があるわけではありません。 また、心理的には「親にも理由があったから」「私が悪かったから」と、彼らは、現実に起こったことの痛みを軽く見積もって、親を正当化し、虐待の事実について話すことを、無意識に避けているとも言えます。 それは、親を助けて、愛されようとする、傷ついた子どもの無意識の愛の戦略です。 また、1、2回、セラピーを受けたことで、全てが解決したかのように振る舞うサバイバーもいますが、それは、ほとんどの場合、それ以上見たくないと思っている防衛で、傷が深刻であればあるほど、継続的で丁寧なセラピーが必要になります。 サバイバーにとって大切なことは、痛みの事実を認めることです。 それは、残念な事実であり、幼い自分には非常に過酷なことで、本来なら保護される必要があったと、虐待者の罪を認め、彼らの行為にノーと言える自我を芽生えさせることです。 サバイバーたちが立ち直る過程の一つに、怒りを取り戻すということがあります。 これは、治癒のプロセスの一つなので、この場所に居続けることは防衛でもありますが、治癒の一つの段階として、とても大切です。 怒りを取り戻す行為は、自分のパワーを取り戻すことに直結します。 つまり、健全な自我によるNOという声が、自分自身の尊厳を取り戻すことにつながるのです。 この段階において初めて、虐待のサバイバーたちは、自分に起こったことを悲しむことが有効になります。 ですが、怒りを取り戻す前の悲しみは、防衛でしかなく、自己憐憫の悪循環が続き、回復は遠くなります。 多くの虐待のサバイバーたちが、虐待について一度もセラピーを受けずに、ポジティブシンキングや、心地の良いヒーリングなどでトラウマに対処している状況については、セラピーの現場からは真剣に問題定義する必要があります(もちろん、サバイバーたちが傷と向かい合うための勇気を得るために、ヒーリングを受けることは有効ですが、それだけでは決して治癒とは言えません。)。 成功哲学や、心地よいヒーリングは、本人たちが健全な自我を取り戻した後には有効になるでしょうが、それまでは、むしろ、傷を隠す防衛として利用されることが多いのも事実です。 サバイバーたちの治癒の土台となる在り方は、以下の3つです。 1)親を助けられないことを認める 2)自分の人生に残念なことが生じた事実を認める 3)責任の所存を明らかにする サバイバーたちに、この意識が育って初めて、ヒーリングやセラピーが有効となります。 つまり、《愛の喪失》という事実に、しっかりと向かい合うことによって、サバイバーたちは自分の本当の人生をスタートすることが可能になるのです。 癒しと、そこから始まる、本当の人生のためには、何よりもまず、虐待による神経システムの怪我を治癒し、健全な自我を育てることが、必要です。 ※この文章を読む際の留意点 虐待の定義は、身体的、精神的、性的、ネグレクトと言われていますが、サバイバーの傷は、外部から見えやすい定義可能な虐待だけが原因とは言えません。ハートエデュケーションセンターでは、外部からはわかりにくいケアされない痛み、つまり、親が子の感情をネグレクトすること、バーストラウマ、機能不全家族の問題、家系から受け取ってきた負の連鎖なども、サバイバーを生み出す原因であると考えます。 ※この記事は、過去のFacebookページの投稿を加筆修正しています。
  • サバイバーについて考える Vol.7 大人の責任を引き受ける子どもたち 2020年7月3日サバイバーについて考える Vol.7 大人の責任を引き受ける子どもたち
    「多くのサバイバーは、幼い頃から大人の責任を引き受けさせられる家族で生きてきました。その結果、途中で様々な体験や学ぶ機会を大幅に失って、慌ただしく成長しました。回復は、散逸した断片を拾いながら、自己の失われた部分を取り戻すことでもあります。」 「もしも大切な人が子どもの頃に性虐待にあっていたら」ローラ・デイビス著 過去の虐待経験(性的、精神的、身体的)について誰かに話すと、それを体験したことのない人は、驚いて腫れ物に触るように扱ったり、自分には無関係だと他人事のように振る舞うことで、距離を取ろうとするかもしれません。 ですが、理解しておくべきことは、重度のサバイバーの心理的苦痛は、それを体験したことのない人の心理的苦痛と、無関係ではないということです。 もちろん、サバイバーの痛みは相当のものなので、軽率に扱うことはできません。 それは、痛みとしては強烈で、その人の人生そのものや人格、健康に、非常に深刻な影響を及ぼします。 ですが、他の痛みと、絶対的に違うものであるかというと、決してそんなことはありません。 その意味で「もしも大切な人が子どもの頃に性虐待にあっていたらーローラ・デイビス」に書かれてあることは、全ての人たちにとって有効な内容と言えます。 「多くのサバイバーは、幼い頃から大人の責任を引き受けさせられる家族で生きてきました。」という一文が、そのことを示しているでしょう。 重度のサバイバーでなくても、この体験に記憶がある人は多いはずです。 幼い頃から、母親の愚痴のはけ口になってきた。 忙しい母親を、なんとか助けてあげたいと思ってきた。 不幸せな母親が、幸せになれるように、気遣ってきた。 父親の自己否定の面倒をみてきた。 父親の暴力や暴言を、他人に知られないように、明るく振る舞ってきた。 などなど、書けばきりがないほど、私たちは、ありとあらゆる場面で、両親の面倒をみてきました。 友達のような親子であることは、一見良いことのように見えますが、表面的な仲の良さのその奥に、もしも、親が子に依存していたり、自分たちの状況を理解するように強いているとしたら、子どもたちに大きな負荷をかけています。 大切なことは、子どもたちは、まだ、意志の力で、NOと言えるほど成熟してはいないということです。 そして、子どもたちは、大好きな親になんとか愛されようと、幼い頃から少しずつ戦略を始めていきます。 また、適切な形で愛をもらえず、自我が未成熟であるとき、模倣によって、親そのものになろうとします。 こうして親が無意識に、子どもに自分たちの人生の責任を取らせようとする親子の逆転ゲームが、着々と進行していくのです。 そして、愛を求めながらも、NOとは言えない子どもたちの声なき声は、本人たちもわからない、無意識の行動化(アクティング・アウト)や、自分を攻撃する内攻化(アクティング・イン)という形で現れはじめます。 重度の虐待のサバイバーでも、そうではないサバイバーでも、回復への道のりが、自分の失った断片を拾い集める作業であることは、共通しています。 私たちは、幼い頃に、大切な自分自身のありのままの感覚を、度々失ってきたために、大人になっても、自分が感じられないままでいるのです。 ありのままの自分へ戻る旅は、過去の失ってしまった自分の断片を取り戻す作業からスタートします。 それは、痛みを忘れたり、ないことにしたり、軽く見積もることではありません。 その意味で、セラピーとは、正しさを学ぶ場所ではなく、自分自身であることに正直でいるためのプラクティスなのです。 ※この文章を読む際の留意点 虐待の定義は、身体的、精神的、性的、ネグレクトと言われていますが、サバイバーの傷は、外部から見えやすい定義可能な虐待だけが原因とは言えません。ハートエデュケーションセンターでは、外部からはわかりにくいケアされない痛み、つまり、親が子の感情をネグレクトすること、バーストラウマ、機能不全家族の問題、家系から受け取ってきた負の連鎖なども、サバイバーを生み出す原因であると考えます。 ※この記事は、過去のFacebookページの投稿を加筆修正しています。