人を平気で傷つける子には、何が起きているのか?

2020.7.28

人の気持ちに無関心な親と子

子どもの親として、セラピストとして、子どもたちを取り巻く諸問題に関わっていると、傷つき悩みを抱える子どもたちの多くが、人の気持ちを想像できる子たちだと気がつきます。

また、その逆で、人を平気で傷つける子やその親が「なぜか、人を傷つけてしまって困っている」とか「うちの子は、平気で友達を傷つけるので、なんとかしたい」と相談をしにくることはあまりなく、もちろん、100%とは言いませんが、彼らが人の気持ちに関心が持ちにくいということが伺い知れます。

そして、多くの場合、人を平気で傷つける子本人や、その親は「悪気はない」「遊びのつもり」「気にしすぎだ」「傷つく方が問題だ」という、強者の理論に立っています。

いじめ防止授業などで、学校が積極的に「悪気はなくても、相手がそう感じてしまうことがある」と「遊びのつもりだったでは済まされない」などと、当然のことを丁寧に言語化して伝えても、人の気持ちがそもそもわからない子たちは「いじめられる方が悪い」などと、陰では傷ついている子をバカにして笑っている現状が、残念ながら存在します。

そんな現状を知ると、「子どもたちに一体何が起こっているのか」「世の中どうなっているのだろうか」と、その原因追及をしたくなったり、責任の所存を考えたりと、正直、行き詰まるような気持ちになることもあります。

被害を直接受けた立場なら、尚更でしょうし、自分へ生じることだけではなく、大切な友人やクラスメイトに生じていることについて心を痛めている子にとっても、状況は深刻です。

仕事柄、多くの活動家や専門家たちが、心の大切さやいじめ防止について警鐘を鳴らしている記事やニュースを読みますし、そういった活動にも注目していますが、実際には、現場にはまだまだたくさんの誤解があり、残念ながら未成熟だと言えます。

そのような状況下にあると、子どもに生じた出来事が、怪我や大きな事件事故でなく、感情問題であれば、どれだけ深い傷でも、親は周囲の相変わらずの状態に呆然とするのみで、それ以上どうすることもできず、子どもの心の痛みが放置されてしまうことがあります。

ですが、心の傷は、放置することでは、治りません。

よくいう「時間が解決してくれる」というのが、全くのでたらめだということは、心の世界を深く知る人たちにとっては、周知の事実です。

この外側には見えない心の傷に、周囲がどのように気がついて、ケアしていけるのかが、常に課題です。

子どもは本当にピュアなのか?

子どもはとても純粋だと言われますし、それはある意味、真実かもしれませんが、いじめの被害者になったことがあるとしたら、加害者の子を純粋だと思えるでしょうか。

本当は、世の中には悪い子なんかいなくて、みんな心の奥には善良さがあるということに頷くことができるでしょうか。

実際に、深刻ないじめを受けてきた本人やその親が、そう思うことは難しいはずですし、第三者として相談を受ける立場にあっても、時々耳を疑いたくなるような出来事を聞くこともあり、正直「子どもたちは本当にピュアなのか?」と疑いたくなることもあります。

そんな個人的な感情のゆらぎを越えながら、それでも、この問いについては、「イエス」という1つの答えしかないと、心の世界を探求するものとして、着地します。

なぜなら、人の気持ちが想像できず、遊び気分で、簡単に人を傷つけて、開き直ってしまう子どもたちは、「自分の感情がわからない」という問題を抱えていて、生まれながらに心根が悪くて、そうなっているのではないからです。

「悪気はない」「遊びのつもり」「気にしすぎだ」「傷つく方が問題だ」という言い訳で、相手を簡単に傷つけてしまう子は、それを繰り返しますし、どれだけ言っても、なかなか行動は治らないということはよくあります。

そして、彼らの親も同じような態度をとりがちです。

その子たちが、自分の心の傷や、その痛みを訴えても、まず親たちが、それを理解してこなかったので、感情的な痛みがケアされないまま成長してきてしまったのですね。

そういった対応をする親たちは、「うちの子は、何も言わないから大丈夫」「男の子ってそんなもの」「子どもはそうやって成長していくもの」と、あっけらかんとして見せますが、実は内情を聞くと、「実は、なんども我が子の問題を感じてきたけど、どうしていいかわからないし、これ以上考えていると、我が子を信頼できなくなるので、周囲にもなかなか相談できず、放置している」という状況があります。

実は、彼らの悩みこそ深く、それゆえに、なかなかオープンになりにくいのです。

フェルトセンスって何?

幼ければ幼いほど、子どもたちは、感情を説明するための十分な言語を持っていません。

怒りは怒りという言語で理解されるのではなく、体が熱くなるとか、足を踏みならしたくなるとか、叫びたくなるという体の反応で感じられます。

不安は不安という言語で理解されるのではなく、ひんやりするとか、ドキドキするとか、ぼーっとするという体感覚がやってきます。

これは、もちろん、子どもによって様々で、状況によっても変化します。

このように体で感情を感じることを「フェルトセンス」といいますが、子どもたちの生きる世界では、感情は、まさにこのフェルトセンスで認識されます。

そして、それを大人たちが軽視しているとしたら、子どもたちは、自分で自分の感情を理解する機会が持てず、感情の行き場を失います。

感じるなという禁止命令がもたらす害

「気にしすぎるな」「強くなれ」「男だろ」「泣くな」「弱虫!」「黙りなさい」などと繰り返し言われて育ったとしたら、子どもたちは、「感情は感じてはいけない」という禁止命令を受け取っています。

つまり、大人に言われた通りに、自分の感情を否定してきてしまい、感情の扱い方を知らないので、他人の感情にも鈍感になるのですね。

否定したとしても、感情はあり続けますから、子どもたちは、内側にくすぶる抑圧された感情に居心地の悪さや、感じてはいけないという罪悪感を持ち、それを誤魔化そうとして、他人を傷つけて笑い者にしたり、暴力暴言などの刺激によって、その不快なフェルトセンスを意識しないようにします。

彼らに、周囲の大人が「どうして、人を傷つけるんだ?」「人の気持ちを考えなさい」と当たり前のことを言ったところで、その子は理解できません。

その子にとってみたら、自分の気持ちこそが、今まで尊重されず、理解もされず、むしろ感情は感じてはいけないという禁止命令を受け取ってきて、もはや、自分の感情を認識することができないのですから、今更、他人の気持ちを想像するということなどできないのです。

ということで、実は「悪い子はいない」と言えますが、「自分の感情を理解できないので、人の感情を理解することもできない子はいる」と言えます。

また、「大人のいうことを素直に聞いて、自分の感情を抑圧してきたピュアな子は存在する」と言えますが、「生まれた時から、悪意に満ちて、人を傷つけることを望んでいる子はいない」とも言えます。

仮に、幼い頃からなぜか悪意に駆り立てられて、親も困り果てるくらいのことをしてしまう子がいるとしたら、それにすら実は、心の世界からの1つの返答が存在します。

それは、その子が、家族の隠されてきた秘密を引き受けているということです。

これについては、ワークで実際に見て、体験して、理解するしかありませんが、1つの心の型としては、よくあることです。

ということで、実は、どんな状態でも、子どもたちは本来ピュアだと言えます。

ですが、そのことを理解していなければ、「平気で人の気持ちを傷つける子は悪い子だ」というレッテルを貼ることは簡単です。

その子たちの親も、自分の感情を丁寧に扱ってきたことがないので、我が子の感情に向かいあうことができず、「大したことではない」「遊びだった」「子どもなんてそんなものだ」と無責任に放置したり、軽く見積もっています。

そうした負の循環の中で、自分の感情を丁寧に扱うことを教えてもらえなかった子どもたちは、謝罪したり、相手の痛みを汲み取り、感情に共感したりする大切な機会をどんどん失っていくのです。

それを防ぐためには、なるべく早い段階から、子どもたちの心の声に、大人たちが耳をすましていること、また、大人たち自身が、自分の心の声に、耳をすましていることが大切です。

人の心を平気で傷つける子どもたちをこれ以上増やさないために、大人たちが「痛みを気にしない強い子を育てる」という時代錯誤の間違った考え方を捨てて、心について学ぶ場が、ますます必要となるでしょう。

ライター
  • 川村法子 2018年2月8日川村法子
    ハートエデュケーションセンター、Pranava Life代表。これまでに不登校、ひきこもり、心身症、アレルギーなどの身体の症状、依存症、DVや小児期の虐待(身体的、精神的、ネグレクト、性的)によるPTSD、関係性の問題、お金や仕事の問題などを、解決へと導いてきた…