ヴォイドタイムの過ごし方

2020.7.15void(ヴォイド)という言葉を辞書で検索すると、空虚、空っぽという意味がある。

この言葉を、心のプロセスで利用すると、「気づきや変化の生じない単調な日々」という意味になる。

意識の変容の共に、現実をじゃんじゃん変えてきた人たちにとって、突然にやってくるこのヴォイドタイムは、あまり良いものには感じられないかもしれない。

「あれほど、毎日が、気づきと刺激と変化にあふれていたのに、最近なぜか、何も生じない・・・」

すると、「自分の変化はもうここで行き詰ってしまったのか・・・」とか、「結局過去の気づきや変容は幻想だったのかもしれない・・・」とか、最悪の場合には「心の道の探求なんてやめてしまおう・・・」なんてことを思ってしまったりもする。

だけど、このヴォイドタイムこそが、とても重要なのであり、ここを超えてこそ、さらにもう一歩自分の本質に近づけるのだ。

それに、変容だけが、重要だというわけではなく、変容が「動」だとしたら、ヴォイドは「静」であることを忘れてはいけない。

「静」と「動」のエネルギーは対になり、互いに互いを助け合っていて、どちらが欠けていても不完全なのだ。

また、ヴォイドを避けたいと思っているとき、刺激や変化を求め続ける自分がいることにも気がついていたい。

刺激とは、言葉通り刺激的で、私たちを興奮させる。

内側に中毒性の恥があればあるほど、刺激にひかれてしまう。

人生の大混乱や、不安定さ、感情のアップダウンによって、いつも苦しみと大袈裟な解放物語の乱高下を繰り返している人たちは、この中毒性の恥というシャドーに自分を乗っ取られている。

いや、正確にいうならば、「乗っ取られている」ではなくて、「乗っ取らせている」のだ。

理解しておきたいのは、安定とは、しっかりとした軸に支えられて、自然の動きに抵抗せず揺れていられることであり、頑なに動かないで踏ん張っていることでもなければ、軸を失い、迷走し、アップダウンを繰り返し、結果疲弊することでもないということだ。

それは、ただ、外側の動きを問題だととらえて、それによって傷つく自分を選択しつづけているだけだ。

そんなとき、どんな些細なことでも、問題だと認識されてしまうだろう。

問題を問題だと感じてしまう傷ついた自分が、ただ、声をあげ続けている。

「人のバイオリズムは、上向きのときと下向きのときがるから、下向きのときは、頭から布団をかぶって死にたい死にたいと叫んでいるけれど、それを抜けたら、とても楽になる。」と、私に話してきた人がいた。

人生が下向きのとき、つまり、静であり、ヴォイドタイムにあるときに、布団を頭からかぶって「死にたい」と言い続けるのは、決して成熟した在り方とは言えないし、むしろ、それは、傷ついた子どもの未成熟な反応で、それは、健全な自我が育っていないことによって、中毒性の恥に意識が汚染されていることで生じている。

そういう場合、ヴォイドタイムは激しく退屈で、いっときも早く抜け出したい地獄のように感じられるだろう。

だけど、ヴォイドタイム、つまり、静のエネルギーの本質はそんなものではない。

ヴォイド、静とは、自分自身と深くつながり、足元に咲く花の美しさや日々の営みに喜びを感じられるような、満ち足りた時間だといえる。

そんなとき、私たちは、刺激を必要とはしていない。

不安定さも、激しくアップダウンし続ける感情の乱高下も、誰かへの強烈なジャッジメントによって自分を確認するやり方も、外側に反応するものは、何一つ必要としていない。

ヴォイドタイムは、私たちに滋養をあたえながら、次にやってくる、大きな変容を受け取れるような内側の土台作りをしてくれるだろう。

そして、ただ、私は、私と共にあることができる。

静かに、内側に、座り続けながら。

※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。

ライター
  • 川村法子 2018年2月8日川村法子
    ハートエデュケーションセンター、Pranava Life代表。これまでに不登校、ひきこもり、心身症、アレルギーなどの身体の症状、依存症、DVや小児期の虐待(身体的、精神的、ネグレクト、性的)によるPTSD、関係性の問題、お金や仕事の問題などを、解決へと導いてきた…