2020.8.20

ヘンゼルとグレーテルの話に引き続き、童話について語ってみたいと思う。

グリム童話の「黄金の鳥」という物語の中で、一人の王子が、黄金の鳥を捕まえに行き、それを狐が手助けするという場面が描かれている。

狐は、王子に黄金の鳥を捕まえるためのいくつかのアドバイスをするが、そのうち何度かは、王子がそれを聞かなかったため、困難な状況に陥ってしまう。

そのアドバイスの一つが「黄金の鳥を捕まえたら、きらびやかな金のかごではなく、必ず質素な木のかごに入れて持ち帰ること」という不思議なものだった。

王子は、黄金の鳥を見た瞬間そのあまりの美しさに、木のかごは不釣り合いだと思い、装飾の施されたきらびやかな金のかごに入れて持ち帰ってくる。

そして、結果、王子は捕らえられて、命の危機に瀕してしまう。

狐のアドバイスは、おとぎ話の単なる気まぐれかと思いきや、実は、人の心理の深みが描かれているのだと、日本で最初のユング派分析家である河合隼雄氏(1928-2007)はその著書の中で語っている。

そして、40年も前に書かれた氏の考察は、現代の癒し業界への警鐘のようにも感じられるのだ。

この物語は、王が大事にしている黄金のリンゴの実が盗まれるという事件からスタートする。

そして、それを盗んでいるのは、どうやら夜に現れる黄金の鳥だということがわかり、そのリンゴ泥棒の犯人である黄金の鳥を捕らえるために、王子が旅に出るのだ。

心理的象徴として、黄金のリンゴがなくなるというのは、現実に生じているなんらかの危機を示している。

また、その原因である、夜中に現れる黄金の鳥とは、潜在意識に潜むもの、例えばトラウマであったり、なんらかの思考体系であるとわかる。

だけども、同時に黄金の鳥は、ギフトを示してもいる。

つまり、それを、潜在意識の闇の中から拾い上げてくることができれば、現実に生じている危機も超えられるし、そこから新しい可能性も広がっていく。

だけども、黄金の鳥は、質素な木のかごに入れて持ち帰らなくてはいけないのだ。

決して、装飾の施されたきらびやかな金のかごではダメなのだという。

なぜか?

つまりこれは、「どんな心の内側のものであっても過大評価したり、ポジティブシンキングによって飾り立てたりすることなく、ありのままを見よ」というアドバイスなのだ。

ただ、それを、まっすぐな目で捉え、認識する。

それができなくては、せっかく黄金の鳥を捉えても、命の危険に晒される。

つまり、事実をきらびやかなもので包み、飾り立て、ポジティブシンキングで都合の良いものに仕立て上げることは、人を、癒しではなく、むしろ危機に追い込んでしまうということだ。

まっすぐな目でそれを捉えることができないのは、恐れによる防衛だ。

人は、誰もが痛みを認識するのを怖がっている。

過去に生じた「残念な事実」を認めるのは、何より許しがたい。

そんなとき人は、実際の出来事や自分の過去の痛みを、正当化し、問題をなかったことにしてしまう。

考え方が良くなかったと、自分を責めることもあるかもしれない。

そうして、潜在意識にあるものを飾り立て、事実を見ないまま、顕在意識(目の前の事実)へ戻ってきたとき、そこには何が残るのだろうか。

おそらくそこにあるのは、何も変わらない痛みを伴う現実でしかない。

事実に向かい合わないやり方、つまり、こう思い込めば「痛くない」「苦しくない」とする、事実に砂糖をまぶしただけの一時しのぎは、現実を変えていくものではない。

1度や2度は、それでもいいのかもしれない。

ただ、それを継続していったとき、まぶされた砂糖の分厚さは、防衛の厚みと同じになってしまうことをわかっていたい。

つまり、それは、危険度を増していく。

現実はさらに複雑化し、良いことをやっても、いい風に考えても、何も解決はしない。

なぜか想定外の痛みがやってきて、現実はいつも困難続きだ。

自分はそんな運命だからと諦めるのか、もしくは、その痛みも結局幻想だからと開き直るのか、どちらであっても、痛みに真正面から向かい合っている姿勢とは程遠く、それをやっているうちは、やはり、砂糖まぶしの防衛止まりだということを理解していたい。

つまり、このことは、ギフトを現実にもたらす、癒しと変容とは全く別物であることを、「黄金の鳥」の物語は、はっきりと私たちに伝えてくれているのだ。

黄金の鳥は木のかごに入れよ。

真実は、飾り立てることなく、ありのままに、まっすぐ捉えよ。

事実はただ、事実のまま受け入れよ。

そのとき、隠された宝が見えてくる。

それが、この「黄金の鳥」の物語に込められたメッセージだと言える。

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※この記事は、過去のブログを加筆修正しています。